2022年7月13日 デイボーション

ヨハネの福音書 8章


 姦淫の女の罪と人の罪


 イエスさまは、姦淫の女の石打の刑を通じて罪の赦しを語られた。この箇所は、多くの牧師達のメッセージに用いられている。私達にもよく知られている聖句である。

関牧師の学びの時に二つの質問から学び、示された。一つの質問は、なぜイエスさまは、会衆に背中を向けて座られたのか。二つ目の質問は、イエスさまは、かがんで何を地面に書き込まれていたのか。の質問だった。一つ目の質問に対して、単純な私は、大衆の静まり返るのを待つためだと思っていた。関牧師が答えられたのは、女の人に石が飛んできたらかばってあげる覚悟の為に座られた。かばってあげることが、イエスさまの十字架を意味するものだったのである。私達でも愛する子どもが瀕死の状況に出くわした時に子どもの前に立ちはだかり、かばうだろう。動物でも同じである。愛する飼い主といる時に、常に飼い主に背中を向けて座る。私があなたを守ってあげるよ。愛しているよ。安心しなさい。ということであるらしい。背を向けて座るということは、イエスさまの十字架そのものであったのだ。「わたしが、あなたの身代わりとなるから大丈夫だよ。」と、この女の人に語られたのだろう。


 二つ目の質問は、イエスさまは、「地面に何を書かれたのだろうか?」の質問に対して、自分は、「神は愛なり。」と書かれたと思ったのである。人々がそれを見て去って行ったのにはもっと深い意味があったのである。イエスさまは、「人の罪」と書かれたのである。だれも人をさばくことはできない。さばくことができるのは、ただお一人、天の父なる神のみである。イエスさまが地上に来られたのは、さばくためではなく、救うためであるということ、そして、人の罪が赦されるのは、イエスの十字架の贖いだけであることと、イエスを救い主として受けいれることを会衆に思ってほしかったのだということである。


神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネの福音書 3:17


祈り

ご慈愛なる天のおとうさま。あなたの御名をほめたたえます。

私たちを罪から救うために御子をこの地上に与えてくださり、十字架に架かられて、私達の罪の贖いのため、永遠の命を与えてくださったことに心から感謝します。十字架の救いは、さばくためではなく救いのためであるということを多くのイエスさまを神と信じない人々に伝えることができますように、どうぞ私達クリスチャンを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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