イザヤ書37章
『神のみわざに委ねよう』
「彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。」(3節)
アッシリアの軍勢は、いよいよ迫り、遂にエルサレムを包囲した。ヒゼキヤは、自分たちの力ではどうすることもできない状況に対して、やっとその重い腰をあげてイザヤに伝令を遣わした。度重なるイザヤの警告に耳を貸さなかったヒゼキヤに対し、イザヤは預言者として主のことばをヒゼキヤに告げる(6:3、21:35)。
「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がない。」とは、母胎に子を生み出す力がないと、母子ともに死ぬ危険があったことから、危機的な状態にあることを意味するという(牧師の書斎より)。つまり、自分たちの力ではどうすることも出来ない状態、ということである。
私たちも、自分の力ではどうすることも出来ない状態を経験することがある。クリスチャンであろうと、なかろうと、そのような状態に陥った時、誰しもが神に祈りを捧げることしか、出来ないことに気づかされる。
しかし、自分の力ではどうすることも出来ない、のはごく自然なことであるということを覚えたい。なぜなら私たちは、神に造られたもの、だからである。
私たちは自分で生まれてくることも、自分で死ぬこともできない。自分で時間を進めることも、止めることもできない。私たちは、ただ神から与えられたものの中でしか、この地上で生きる術はないのである。然もそれらは、「負いやすく、その荷は軽い」(マタイ11:30要約)のである。
自分の力ではどうすることも出来ない、という事実に直面したなら、神はそれをすでにご存じであること、そして、そのくびきは負いやすく、荷は軽いことを確信し、神の偉大なる力より、自らの力を信じようとした不信仰を悔い改め、主に立ち返ることである。
「それゆえ、アッシリアの王について、主はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない‐主のことば‐。わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」(33-35節)。
神の子どもである私たちは、このように神が守っていてくださっていることを覚えて、心に平安をいただこう。
祈り:愛する天の父なる神さま。自分のわざではなく、あなたのみわざを信じ、すべてを委ねることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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