イザヤ書 35章
『その道は聖なる道』
昨日は、世界に対する徹底的なさばきが預言されていた。切り裂かれるほどに凄まじいさばきで、なん度も首をすくめてしまった。ところが今日は逆転V字回復、神の民が解放されて喜びの賛美をする。神さまの栄光が明らかにされる預言だ。
「荒野と砂漠は喜び、荒地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。」(1節)
神さまの救いは人に限らず、自然界の回復にまで及んでいる。
「荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼け地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。」(6〜7節抜粋)
そうか、34章と35章はセットで明暗を描いていたのか。
バビロンに滅ぼされたイスラエルの民へのエールも頼もしく明快だ。
「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐るな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」」(4節)
強くあれ恐るな、は旧約の神さまの十八番、このみことばを聞くと私も安心できる。
そしてイザヤ書の中で最も主軸となると思われるイエスさま預言が8節だ。
「そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。」
このみことばを聞いて思い出すのが2つ。
「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり 心の中に シオンへの大路がある人は。」(詩84:5)
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)
イザヤの預言は旧約の時代、新約の時代、今現在、そして来るべき新天新地までを包括している。なので私の自分ごととして黙想すると、こんなことが受け取れた。
神さまがさばくのは、私ではなく私の罪だ。イエスさまの十字架のおかげで、私たちは神さまに赦され、恵みや祝福にあずかるための特製の「聖なる道」まで用意していただいた。イエスさまが道となってくださるというのだ。
でもイエスさまが道ならば、イエスさまを踏むことになる? 私の足が罪で汚れていても、土足のままでも、そのままの汚い足で踏みしめ歩いても良いというのか? 私は”贖われた者”の仲間に入れてもらってもいいのだろうか?
イエスさまの道とは、なんという贖い! なんという恵み! 比べるものが何一つない最高級の恵み!!
神さま、シオンの道を持つ幸せを与えてくださってありがとうございます。すぐ罪を犯し、悔い改めの足りない私です。イエスさまの十字架の贖いの、重さ、辛さ、悲しさに想像力が及ばない浅はかな私です。それでもイエスさまの道を歩かせていただけることを感謝します。どうかあわれんで導いてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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