2022年6月28日 ディボーション

イザヤ書59章


『主の義憤』


 全能なる神、平和の君、愛の主、赦しの神にも怒りがある。私たちはイザヤ書を通じて神の裁きを歴史的事実として学んできました。水源地の水が汚染されていたら下流で水を飲むもの全てに汚染が広がるように罪がユダヤの民に、そして我々に広がってゆく姿をイザヤは示しています。

 1〜2節「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

 私たちの罪とはなんでしょうか。私たちの咎は神に不義であること。咎は結果として神との仕切りとなり神の声が聴こえず、神の意志が見えなくなってしまう。そうして自分しか見えないので神に背き、神と争うことになってゆく。私たちの罪は神に対して的はずれな生き方をする、つまり神に向かわずに、お金や財産、自分達の幸福と神から外れたところに狙いを定め生きること、神の教えに背き、みことばに争うこと、創造主である神に不義を働くこと、これらが汚染の原因でやがて落ち着く所は、自分に非があるのではなく、神の方に問題があるとしてしまうのです。そのため、公正は私たちから遠く離れ、義は私たちに届かない、輝きを望んでいるのに真昼でも暗闇の中にいて死人のようだと続きます。1節を受けるように12節が続きます。

「それは、私たちの背きが御前で多くなり、私たちの罪が不利な証言をするからだ。まことに私たちの背きは私たちとともにあり、私たちは自分の咎をよく知っている。」

 このような我々は神に裁かれて当然ですよね、しかし神はこのような正直者が損をする世の中、真理が失われ悪がはびこる世を見て心を痛められたとあります。

 自分はここの16節が主イエスを世に送る父なる神の決心があるように思うのです。16節前半「主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた。」

 とりなす者とは英語では Intercessorもしくはmediate 。日本ではあまり馴染みのない仲介役、ミディエーターの事をご存知でしょうか。妻がしばらくワシントン州のミディエーションセンターで仕事をしておりました。どんな仕事かというとアメリカには離婚が多いわけですが、すべてを裁判所に持ち込むと裁判所自体の機能がパンクしてしまうので、裁判所は離婚の争議をまず仲介して離婚条件で和解させるために裁判所の代わりに選ばれた仲介所、ミディエーションセンターに送り、そこで夫婦間の離婚の条件、例えば子どもの養育費とか、誰が今の家をそのまま持つか、2人とも出て行って売るとか、いろいろな案件を事前に協議するわけです。一度このセンターに自分が呼ばれて立ち合ったことがあります。奥さん側が英語が良く解らずに日本語を話す人だったので通訳したのですが、ミディエーターは両方の意見を聞きます。なので一方の方に肩入れする事は許されてないときつく指示を受けて立ち合った事があります。両方の意見の真ん中に立って解決方法を模索する役です。

 日本にもどうやらこの制度がある事はあるようですが知られていない存在のようですし、裁判所の決定を助ける公的な役割までは担っていないようです。

 ここでは義なる父である神が、咎で染まりながらも、それでも愛しておられるユダヤの民との間に入って仲介する者が居ないことに唖然とされたのです。義である神が罪あるユダヤ民族に直接会えば、裁く以外に方法はありません。どうすれば愛する民を救うことができるのだろうか。

 16節後半「それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた。」この世の水源は汚染されておりこの世に居る者は残念ながら誰一人として神とのとりなしをする者がいないのです。それで神様のご自分の右腕、息子である主イエスを御座から切られてこの世にお送りになる決断をされたのです。主イエスが新しい水源となって清らかな、生ける水を送り込み、この水を飲む者たちは汚染から救われるようにされるためです。

 主イエスは初めに私たちの救いを目的に送り込まれました、これが初臨ですがイザヤはその後の姿も描いています。

 18節「主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復をされる。」

 すでに主イエスは報復されましたか? いえ未だです。この場面は主がもう一度訪れて今度は義憤をこの世に下す再臨の主イエスを表しております。こうして21節では「あなたの上にあるわたしの霊」、聖霊のことですね、あなたの子孫から永遠に離れないと契約の誓いをされたのです。義憤の裁きの中でも聖霊を送り続けてくださいます主に心から感謝いたします。


祈り

預言者イザヤだけでなくエレミアも31章33節の中で「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」主イエスを通じて我々も神の子、神の民となりました。石板ではなく、我々の心に律法が書き記されていますことを感謝し、また主のことばを守ることができるように聖霊を遣わされて下さったことに感謝いたします。弱い我々ですが、主イエスからの生ける水を飲み罪の世界から救ってくださるように、アーメン。


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