イザヤ書56章
『あらゆる民の祈りの家』
56章をざあっと読むと、55章までとは趣が違うように感じる。安息日のことが出てくる。宦官って誰だっけ? という人も出てくる。でもゆっくり読み直してみると、そうでもないのかもしれない。
「主はこう言われる。公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。私の義が現れるのも。」(56:1節)
この聖句は、アプローチこそ違うけれど、前の55:6、7とおんなじ意味合いだ。「御心を行いなさい。実生活の中で、あなたらしくみことばを行いなさい。救い(御国)が来るのはすでに決まっていることだから、素直に主に従いなさい。」
ただ55:7の表現は、同じ意味でも私には美しく胸に迫る。
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
好きだなあ、このみことば。ディボーションは日々前に読み進むけれど、進むことで、過ぎ去ったみことばに気づき、引き返してもう一度味わうことができる。聖書は深い。底なしだ。
そして56章でも、久しぶりに大大大好きなみことばが登場した。
「幸いなことよ。」(2節抜粋)
詩篇では何回も出てきた感嘆詞。幸せになりなさいというのではなく、恵みや祝福はすでにあるのですよ、と気づかせてくださるみことば。安息日は「幸いなことよ。」と、日がな一日のんびり感謝して過ごす日でありたい。
そして主の名を愛する人は、異国の民であっても、門戸を開けて招かれる。
「なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7節抜粋)
祈りの家の教会はサンクチュアリ。中世まで、教会は法律などの力の及ばない、文字通り聖域だった。HCC は新来者に恵まれて毎週のように新しい祈り人が訪れてくれる。その方達が、安心して祈れる家だろうか? 神さまの御翼に守られて、祈りながら憩いながら安息の聖日をを過ごしてくれているだろうか。
神さま今日もみことばをありがとうございます。公正を守り、正義を行うのは簡単ではありませんが、みことばの励ましを感謝します。
安心して自分の心を注ぎ出せる場を求めている人が大勢います。神さまに創られた人間は、祈りたい本能が授けられています。どうかHCCが、あらゆる民の祈りの家として用いられますよう私たちを整えてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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