イザヤ書 50章
従順な弟子
50章は、イザヤの神への従順な弟子としての働きが示された。
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。」4節
「神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、」5節
「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」6節
神である主は、イザヤに弟子の舌を与えられた。舌とは、ことばをあらわす働きである。
その舌によって、疲れた者をことばで励ますことを教えられた。さらに、神である主は、
イザヤの耳を開いてくださった。耳を開く、とは神のみことばを聞くことである。ローマ人への手紙10章17節に「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」と書かれている。聞くことは大切なことであるが、それ以上に、みことばを通して主と人格的な交わりを持つことはもっと重要である。ここでは、神の御声を聞くだけでなく、たとえ苦難に出会った時でも、主を信頼して、喜んで従って行くことであり、又、あと戻りは許されないということである。
イザヤがこうまでして大胆に神のしもべとして、民に語ることができたのは、主の助けがあると信頼していたからである。神のしもべとして従順につかえてきたからである。
従順につかえるということを思った時に、やはりイエスさまのことを忘れてはいけないことだろう。パウロは、ピリピ人への手紙2章6節から11節でイエスさまをほめたたえている。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
祈り
愛する天の父なる神さま。御名を心からほめたたえます。
私たちを朝ごとに呼び覚まし、あなたのみことばを聞き続けることができますように、そして、苦しみの中にいても他者を励ますことができるように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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