イザヤ書42章
『主はあなたの手を握っている』
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。」(1節抜粋)
聖書の中で、神さまと私たちの関係は、いろいろなたとえで表される。”羊飼いと羊”、”ぶどうの幹と枝”、そして”主人としもべ”などだ。辞書的な意味合いの”しもべ”は、奴隷のように問答無用で主人に従わなくてはならない存在だ。主人との上下関係も威圧的で不自由で。
でも神さまが意味する”しもべ”は全く違う。「わたしが支えるわたしのしもべ」、神さまが神さまの方から、100%支えてくださる、守ってくださる存在を”しもべ”と定義しているのだ。しもべ=使徒でもあり、神さまは信頼して福音を託してもくださる。
そのしもべを、「わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。」と、100%の愛を注ぐと約束してくださっているのだ。なんという恵み!
「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、」(3節抜粋)
私がキズ者で使いようがなくても、お払い箱寸前の役立たずでも、その存在を大切に扱ってくださるという。
もちろん神さまの筆頭しもべは、イエスさまである。イエスさまは公生涯の始まりで、ヨハネからバプテスマを受けた時、天の声が告げた。
「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)
上記1節の預言が成就した。だから42章2節以降はイエスさまの完全無欠のしもべとしての具体的働きが預言されている。イエスさまの公生涯のすべては、父なる神さまのことばを語ることだった。
下っぱの下っぱの末席を汚すばかりのしもべの私は、生活のすべてをみことばに生きることはできない。だけどそれでもなお、神さまのしもべてあることの幸せと感謝に満たされる。2節以降の予言の一つでも実行できたら喜びだ。
「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。」(6節抜粋)
しもべとして召命されると、神さまは私の手を握っていてくださる。天の離れた場所からではなく、聖霊さまの姿でいつもかたわらにいてくださるという心強い約束だ。
天の父なる神さま、あなたの愛を感謝します。あなたに託されたしもべの召命は「隣人を愛すること」。しもべは私であり、教会でもあります。私の単数ではなく、私たちの複数で、教会の仲間と共に主に祈り、神さまの愛を隣人に広げていくことができますよう、私たちを整えてください。
HCCの新年度の召命はなになのか、年度聖句のみことばを示してください。従順に従えますよう、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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