2022年6月11日 ディボーション

イザヤ書42章


『主はあなたの手を握っている』


「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。」(1節抜粋)

 聖書の中で、神さまと私たちの関係は、いろいろなたとえで表される。”羊飼いと羊”、”ぶどうの幹と枝”、そして”主人としもべ”などだ。辞書的な意味合いの”しもべ”は、奴隷のように問答無用で主人に従わなくてはならない存在だ。主人との上下関係も威圧的で不自由で。

 でも神さまが意味する”しもべ”は全く違う。「わたしが支えるわたしのしもべ」、神さまが神さまの方から、100%支えてくださる、守ってくださる存在を”しもべ”と定義しているのだ。しもべ=使徒でもあり、神さまは信頼して福音を託してもくださる。

 そのしもべを、「わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。」と、100%の愛を注ぐと約束してくださっているのだ。なんという恵み! 

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、」(3節抜粋)

 私がキズ者で使いようがなくても、お払い箱寸前の役立たずでも、その存在を大切に扱ってくださるという。

 もちろん神さまの筆頭しもべは、イエスさまである。イエスさまは公生涯の始まりで、ヨハネからバプテスマを受けた時、天の声が告げた。

「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

 上記1節の預言が成就した。だから42章2節以降はイエスさまの完全無欠のしもべとしての具体的働きが預言されている。イエスさまの公生涯のすべては、父なる神さまのことばを語ることだった。

 下っぱの下っぱの末席を汚すばかりのしもべの私は、生活のすべてをみことばに生きることはできない。だけどそれでもなお、神さまのしもべてあることの幸せと感謝に満たされる。2節以降の予言の一つでも実行できたら喜びだ。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。」(6節抜粋)

 しもべとして召命されると、神さまは私の手を握っていてくださる。天の離れた場所からではなく、聖霊さまの姿でいつもかたわらにいてくださるという心強い約束だ。


 天の父なる神さま、あなたの愛を感謝します。あなたに託されたしもべの召命は「隣人を愛すること」。しもべは私であり、教会でもあります。私の単数ではなく、私たちの複数で、教会の仲間と共に主に祈り、神さまの愛を隣人に広げていくことができますよう、私たちを整えてください。

 HCCの新年度の召命はなになのか、年度聖句のみことばを示してください。従順に従えますよう、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

閲覧数:45回

最新記事

すべて表示

ヨハネの福音書 5章 ベテスダの池で病人に声をかけられるイエス。「良くなりたいか。」6節 (一部抜粋) イエスさまが、エルサレムに上ってこられた時にベテスダと呼ばれる癒しの池で38年間も病に苦しんできた人を癒やした時の、イエスさまと病んでいる人との会話に考えさせられた。 「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主

イザヤ書66章 『終末での出来事』 イザヤ書の最後となったこの66章を読み比べると、聖書全体の締めくくりの66巻目である黙示録の臭いがする。 22節「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、ー主のことばー あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。」 ここには黙示録と同じように新天新地が示されていますが、ここでの対象は黙示録のように全ての人ではなく、限ら

イザヤ書65章 『わたしはここだ』 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1) 1節にある「わたしを尋ねなかった者たち」「わたしを探さなかった者たち」と「わたしの名を呼び求めなかった国民」とは、異邦人のことである。イスラエルの民が神に逆らい続