イザヤ書32章
「荒野が果樹園に」
「見よ、一人の王が義によって治め、」(1)は、メシヤ預言である。そして「ならず者」(5)、「安逸を貪る女たち」(9)、「うぬぼれている娘たち」(10)とは、神に逆らうユダの民のことである。
これは、やがて南ユダ王国が、バビロン帝国によって滅ぼされ、荒野、廃墟となるという預言である。
しかし、15節から希望の預言が語られる。「しかし、ついに、いと高きところから私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。」(15)
実際に、南ユダ王国は、バビロン捕囚から40年後に、エルサレムに帰還することになり、廃墟となった神殿を再建することができたのである。
そして、この15節以降の預言は、さらに先の待ち望むべきメシヤの到来と、聖霊降臨の出来事まで預言している。
6月5日は「聖霊降臨記念日」(ペンテコステ)だが、まさに15節の預言の成就の中に私たちは生かされているのだ。
「荒野が果樹園となる」。これは、数年前のホノルル教会の年度テーマでもあり、当時ガラテヤ書5章から「御霊の実」についてのメッセージが語られた。
まるで荒野のような、渇き切った「この世」にあって、私たちも人生の荒野を歩む時がある。しかし、そのような荒野が御霊の実の果樹園となるのだ、そこに「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実が結ばれる。
御霊の実とは、観賞用ではなく、食べるためにある。この御霊の実を、一人でも多くの人に食べてもらいたい。
さらに食べると種が残る。その種は、食べた人の中で実を結んでいく。喜びの実を食べた人は、同じ喜びの実を結ぶ人になる。こうして、一人が一人が御霊の実を結ぶ木となり、その木が集まり、森のようになっていくのだ。この森こそ、まさに教会である。
それは、「いと高きところから、私たちに霊が注がれ」る時に実現する。私たちは、聖霊の時代に生かされている。神の御霊をいただいて、御霊の実を結ぶ一人一人、そして森のような教会として成長していきたい。
天の父なる神さま
ただただ、あなたの一方的な恵みのゆえに、あなたに逆らっている私たちを救ってくださったことを感謝します。
自らの罪のゆえに、人生を荒野にし、またこの社会を荒野にしてしまっている私たちです。
それにも関わらず、あなたは、私たちを救ってくださっただけではなく、神の聖霊までお与えくださったことを感謝します。
そして、私たちが御霊の実を結ぶ者としてくださったことを感謝します。どうか、御霊の実の果樹園として、森のように成長していくことが出来ますように、これからも私たちを聖霊に満たして続けてください。主よ、感謝します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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