イザヤ書 7章
『栄光の富Ⅰ、再び』
7章14節、聖書の中で初めて登場する「インマヌエル」ということばは、イザヤ8:8とマタイ1:23の3回しか出てこない。それほど大切な聖書箇所をディボーションできるとはとても感謝なことだ。
ただ、昨日の6章ディボーションの記者が紹介してくれた、小林和夫先生の『栄光の富Ⅰ』。これを連日推すことで、イエスさまの臨在からみたイザヤ書を、もっと豊かに充分に味わえると思う。なので今日は小林先生の名著の引用をします。
ちなみに『栄光の富Ⅰ』は、小林先生が1984年から2年かけて学院教会でメッセージをした説教集だ。中でもイザヤ書6章は、特化して2回も説教に用いられている。昨日引用されたのは、「神と人とに仕えるみ使い」と題した説教で、今日引用するのは「聖なる神」と題された説教。私たちの教会にも関わりの深い、ホーリネスについてだ。先生の話し言葉の一字一句は、霊的な満たしに溢れんばかり。まさにインマヌエルなり。
6:3で「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」と、み使いのクワイヤーを聞いて、神のなんという聖なるお方であるかが分かった時、イザヤはいかに自分が汚れたものであるかを強く感じ入った。しかし主は、イザヤの罪深さを焼き尽くしてきよめてくださった(6:7)。そしてインマヌエルの預言を受けた(7:14)。以下、小林先生の説教の抜粋です。
〜〜イザヤは全く厳しい経験をした訳です。自分の罪深さを感じた時に、神はイザヤを滅ぼさないで逆にきよめて下さったのです。この経験によって彼は聖なる超越者でおいでになる神は、一方において恩寵と恵みに富まれたお方であることを痛感したのです。ずーっとモーセ以来言われてきた、イスラエルの人々の中における「神の聖」と言う考え方が変わってしまったかの如くでした。それはどういうことであるかと言いますと、「聖なる神」と言うことは罪人が触れたら死んでしまう、滅ぼされてしまうと言う超絶対者であるだけでなく、本当に私たちが自分の真相に気がついて、悔い改めを持って神のみ前に出る時、神はこの汚れをきよめて、神の聖なる性質にあずからせて下さる恩寵の付与者であるという驚くべき恵みの事実を発見したのです。ですから、イザヤに独特な表現である「イスラエルの聖者」と言う神の呼称が、イザヤの生涯のライフ・メッセージになったのです。これはそう言う意味では非常に重要な聖句です。〜〜
〜〜ですからホーリネス教会の言う「きよめ」と言うのは、人を寄せつけないような厳しい聖さではなくて、ここに言うイスラエルの聖者のご性質にあります「聖さ」にあずかることこそ私たちのきよめの願いなのです。〜〜
〜〜モーセの時に言われました祭儀によって聖められると言うこと、あるいはイザヤの時に言われましたところの、心の霊が砕かれてへりくだる者を神が聖めて下さるということの両方は、実はイエス・キリストにおいてこそ完全に成就したのであります。(Ⅰコリント1:30参照)
イエスは人間ではないと言われるような、罪人の最低の低さまでへりくだって下さったのです。「我は砕かれたる者の心を生かし、へりくだる者の霊を生かす。彼と共の住む、彼の内に住む」(イザヤ57:15)と神はおっしゃいました。あのイエス・キリストの十字架とは、あれ以上へりくだることのできない、砕かれることのできない、即ち全人類が神に対してあれ以下の最低にはなれないと言う事の表現でしょう?‥‥‥違いますか!〜〜
神さま、小林先生の説教を感謝します。インマヌエル、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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