イザヤ書 29章
「ああ、アリエル、アリエル。」と、いきなりわけのわからない聖句がでてくる。
アリエルというのは、ヘブル語で「神の祭壇の焼炉」を意味するらしく、又は、エルサレムというこでもあるらしい。イザヤがなぜエルサレムをアリエルと呼んだのかというと、祭壇が血で汚されるイメージが、まさにエルサレムが神に裁かれ、その町に血が流れ、多くの死体が転がる状況に重ねられたためであろうと解釈されている。イザヤは、エルサレムが、神の審判を受けることを予言し、そして冒頭から「ああ、アリエル、アリエル。」と嘆いているのである。イザヤの嘆いている様子がイエス様も又、新約時代に嘆かれておられたことが示された。
「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」 マタイ23:37~38
ここでも語られているように、神様は、めんどりが雛をかくまうように、エルサレムの民をこれほどまでに愛しておられるのに、民は、神様の御心を踏みにじり、悔い改めることを拒み続けていたということである。イザヤの嘆き、イエス様の嘆きがどれほど大きかったことかと思った時に心が悲しくなってきた。
「主はいわれた。『それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。』」13節
私もそういう状態におちいることが多々にある。神様、神様と祈りながらもすぐさま、心ここに在らざれずして、心が先ほど祈ったことから遠く離れてしまっている自分がいるのである。だが、神さまは、その時には必ずといっていいほど気ずかせてくださるのだ。悔い改めへの道を示してくださるのである。人間の命令を恐れずに、イスラエルの神を恐れる者は、24節の御言葉が約束されているのである。
「心 迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る。」 24節
祈り
愛する天の父なる神さま。
御名をこころからほめたたえます。今日もみことばを示して下さって感謝します。
口先だけの信仰でなくて、心からあなたを敬うことができますように導いて下さい。
感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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