イザヤ書25章
「楽しみ、喜ぼう!」
その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(9節)
この預言は、まさに「メシヤ預言」で、「その日」とは、メシヤ=救い主が来られる日であり、「この方こそ」とは、まさに救い主イエス・キリストのことである。
2節から5節には「横暴な者たち」、すなわちユダヤ人の敵である国々が廃墟とされるということが記されている。
しかし、6節以降では「万民のために」が繰り返され、9節のメシヤ預言に続く。待ち望んでいるメシヤは、ユダヤ人だけのメシヤではなく、万民のメシヤだということが預言されているのだ。
私たちは、人々が待ち望んでいたメシヤが来られた、AD紀元後の時代に生きている。BC(Before Christ)の時代、救い主のいない時代に生きていた人々の心境とはいかなるものだろうか。
それに対して、救い主イエス・キリストがおられるという今を生きている私たちは、どれだけ恵まれているのだろうか。
私たちは「その御救いを楽しみ喜ぼう。」という預言が成就した今を生きているのだ。いにしえの人々が待ち望んでいた「その日」を私たちは生きているのだ。ならば、もっと楽しみたい、もっと喜びたい。
今私たちが頂いている「救い」ということが、どれだけ素晴らしことなのか、もっともっと実感したい。
しかし10節から12節には、モアブに対する厳しい裁きが宣告されている。ここまでの預言と内容がガラッと変わるので、イザヤ書は難しいと思われてしまう。
これは、待ち望んでいるメシヤが来られても、「おまえの要塞、そそり立つ城壁」(12)があるので、つまり「高慢」なので、メシヤを受け入れることをしないで、自らに滅び招く人々がいるということを表している。
それは、イエスが来られた時の、パリサイ人、律法学者たちを指し示しているのだと思われる。
この要塞、城壁は、防衛のためにある。彼らの高慢さとは、神への恐れに基づいた防衛の壁なのだ。その壁が高慢という名の城壁となり要塞を造り出す。
私たちの高慢さは、たとえ目の前にあれだけ待ち望んでいたメシヤが立たれても、それに気づかない、むしろ迫害する立場に立ってしまうという悲劇を生みだす。
私たちは、イエスの救いを楽しみ喜ぶ者か、それともモアブのように城壁と要塞に閉じこもってメシヤを拒絶する者か。
イエスの十字架の愛は、恐れを締め出す(1ヨハネ4:18)とある。主の十字架を仰ぎ見て、その十字架に現わされた神の愛のゆえに、恐れなく、救い主を受け入れたいと心から願う。
天の父なる神さま
モアブのように、パリサイ人、律法学者のように、あなたに対して、城壁や要塞を持つことがありませんように。十字架の愛にかけて、ありのままで、何の防衛もなく、主の御前に立つことが出来ますように。
そして、あなたの救いを喜び、楽しむ者でありますように、どうぞ導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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