イザヤ書 21章
『朝は来る』
先週ディボーションを挫折しかかった14章から今日の21章まで、神さまを信じていない各国の民に対する終末の審判がずっと記されている。国々は10ヶ所あまり。
おごれる者久しからず、栄枯盛衰。栄華をきわめ権力を握ったとしても、神さまにそむき悔い改めができなければ、やがて審判がくだるという歴史。この世界の歴史はすべて神さまが支配しているという事実。今現在の日本やアメリカの情勢も、プーチンのウクライナ侵攻も、神さまが支配しておられるという事実。歴史に翻弄される当事者はきつく不条理を嘆くけれど、神さまの時カイロスを信じる私たちはたじろいではならない。
21章で預言の宣告を受けるのは、バビロン、ドマ(エドム)、アラビアの3ヶ所。中でもバビロンは2度目の預言となる。それほどバビロンはイスラエルの民にとって関わりの深い土地だということだろう。
ただイザヤは、14章と21章では預言の主語を変える。14章は神さま自身がバビロンについて語られるが、この21章ではイザヤ自身の嘆きになる。
「それゆえ、戦慄が私の腰に満ち、子を産む時のような苦しみが私をとらえる。」(3節)
出産経験があるかと思うほどのリアルさ。神さまは審判を下したくて、厳しい宣告をしているのではない、その苦悩を、イザヤも我が事のようにひしひしと感じて痛いのだ。
ドマについての預言はわずか2節だが、落語の「時そば」みたいな節まわしで、声に出して愛唱してしまった。ちなみにドマはアラビア半島の北西部あたりだという。
夜回りよ、今は夜の何時か、という問いかけに対して夜回りは答える。
「朝は来る。また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」(12節)
暗黒の時から解放されるのはいつですか?
解放の朝は必ず来ます、でも悔い改めなければまた夜も来ます––。
明けの明星であるイエスさまを仰ぐ時、朝はすぐそこ。
カソリックでは受難節から復活節の暦がまだ続いている。5月29日は主の昇天、6月5日は聖霊降臨。ハレルヤ!
神さま、イエスさまの十字架を仰ぎ見ます。
「しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(ヨハネ21:18)
望まないところでも喜ぶことができますよう、私を練り直してください。希望を持って、朝が来ることを伝えられるキリスト者となれますよう導いてください。
イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
追記:先週、ディボーションがうまくできず、関先生にご教示いただきました。案じてくださる姉妹もいて、ご心配をおかけしました。
資料お借りしました。『イザヤ書講解説教 上下』(小林和夫)、『旧約聖書が、今、語りかける』(鍋谷堯爾)、『聖書注解 旧約第3巻』。小林先生の御本の推薦文は鍋谷先生で、旧約聖書注解のイザヤ担当執筆者も鍋谷先生。目下、鍋谷先生にハマっております。
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