イザヤ書 2章
『終末に備える』
「その日には、人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされ、主おひとりだけが高く上げられる。
偽りの神々はことごとく消え失せる。
主が立ち上がり、地を脅かすとき、人々は主の恐るべき御顔を、その威光の輝きを避けて、岩の洞穴や土の穴に入る。
その日、人は、自分が拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。
主が立ち上がり、地を脅かすとき、人々は、主の恐るべき御顔を、その威光の輝きを避けて、岩の割れ目や、巌の裂け目に入る。
人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるのか。」 (17〜22節)
私たちクリスチャンは、神の子とされ、イエスが再臨される日には、イエスが王として支配する千年王国に住むようになる。イエスと共に暮らすのである。
私たちは、イエスを主と信じるその信仰のゆえに、義とされた。それゆえ、主が来られる時、その御顔、そしてその威光を避けることも、また岩の洞穴や土の穴、巌の割れ目や裂け目に隠れる必要もない。
終末に関する聖書箇所を読むとき、私は神の子とされた特権を、独り占めしていないだろうか、福音を知る者として、聖書のみことばを神のことばであると信じる者として、もっと大胆に語っていかなくてはいけないのではないだろうか、と思わされる。
まだ信者ではない家族や友人のことを思うたび、福音を伝えなければ、と焦る。しかし、人が救われるためには神さまの方法に委ねるしかない。私の自分勝手な思いで伝えても、空回りするか、逆に傷付けてしまうかもしれない。
聖書のみことばを学べば学ぶほどに、信者ではない家族との価値観の違いに葛藤を覚える。私の家族は、父方の家族が信仰していた宗教を守っている。父が亡くなった後、母は父が残した祭壇を大切に守っている。姉も妹も、父が信仰していた宗教を引き継いでいる。そのような状況で、イエスこそが唯一の主であることを、どうすれば伝えることができるのか。
焦る気持ちばかりが先行するが、人は神の方法によってのみ救われる。今、私ができることは、まだ信者ではない家族のために祈り、そして、必ず福音が伝えられるよう、家族を導いてください、と祈るだけである。
祈り: 愛する天の父よ。御名を賛美します。どうか、家族に福音を伝えることができますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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