イザヤ書17章
「世界に及ぶ神の審判」
イザヤ書17章から19章にかけてはそれぞれの国への審判である。ダマスコからエチオピアそしてエジプトとイスラエルの周りの国々への神の審判、神が主権を持つ、未だ見ぬ「その日」の宣告が語られている。周辺諸国への審判といえばもう一人の預言者を思い出す。イザヤは南王国ユダで活躍したが少し前に北王国へ遣わされた預言者アモスがいる。アモスもまた北王国イスラエルと南ユダ王国の周辺の民族への審判を描きながら、あなたがたは神に立ち帰らなかったと嘆くのだ。
アモスもまずは北のダマスコ、南のガザ、北西の繁栄の港町ツロ、アンモン、モアブと北と南王国を時計回りで、神の怒りが台風のように渦巻きとなって、周りの民族から始まり、悔い改めてもらいたいユダヤの民、南ユダ王国の律法への軽視を責めた後に、最後に結論のように北王国イスラエルが無力となって崩壊すると予告している。
そうしてイザヤ17章にもアモスのように主が君臨する日、その日に周辺諸国がどのようになるかが示されている。これは世の全ての国と考えられる。12節「ああ、多くの国々の民のざわめき。彼らは海のざわめきのようにざわめく。ああ、国民のどよめき。彼らは激流のどよめきのようにどよめく。」
ワシントン州の日本人教会では何人もトルコへ伝道へ出かけて行っている。トルコではクリスチャン伝道はご法度なので迫害される可能性が高い。それを顧みずに彼らはトルコで特にシリアからの難民、まさにダマスコの民でトルコに住む人々に伝道するのだが、その方法が変わっている。シリア人の文化「自宅に寄留する者は守る」と言う気質を頼りに、シリア難民とまず知り合い、彼らの家に泊めてもらい伝道をする事を何年も行なっている。
不思議に思い、牧師先生になぜダマスコの民に伝道するのか、日本人なんだから日本へ行くべきではないかと問いてみると、聖書にあるようにイスラエル民族の妬みを起こさせるためだと言うのだ。どういうことかというと、イスラエルの長年の敵である民がイスラエルの神である主イエスを信じて、心からイスラエルの民の事を祈るようになれば、イスラエルの民の目からウロコが落ちて、主イエスを見上げるようになる。何という気の長いしかし聖書的な伝道方法なんだろうととても感心した。現代のイスラエルを敵対している回教徒が主イエスを信じ、神の兄弟としてユダヤ人に武器ではなく、友情の手を差し伸べる日が来るだろうか。
この17章にはダマスコの審判があるが同時に、その中にも残れる者がいると記す、3節抜粋「アラム(ダマスコ)の残った者は イスラエルの子らの栄光のようになる。ー万軍の主のことば。」7〜8節「その日、人は自分の造った方に目を留め、その目(ダマスコ)はイスラエルの聖なる方を見る。自分の手で造った祭壇に目を留めず、自分の指で造った物、アシュラ像や香の台は見ない。」
残れる者は、イスラエルの中だけではなかった。それぞれの国にも残されている。日本にも残されている。その日、必ず世界中の国々の民がざわめき、どよめく時が主の再臨によって来る、その日は神が選ばれた主の町であるエルサレムに、義なる主イエスを信じる残された者たちが子羊を仰ぐ事が預言されている。
祈り
困難なトルコ伝道をつづけている若い伝道者達が迫害から守られますように、それぞれの国々の中におります残れる者達が地の塩となり、ともしびとなって今の暗い世を照らし、主イエスの栄光が表すことが出来ますように、今日一日を心から感謝いたします。 アーメン
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