イザヤ16章
『神は愛 』
「それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために、竪琴のようにわななく。」(11節)
神は、いよいよモアブの国に対し、さばきを下される。そしてそのことは、三年のうちに起きると告げられた。しかし神は、決してそれを喜んでおられるわけではない。
それどころか神は、身も心も張り裂けんばかりに、悲しんでおられる。
イエス・キリストを知らないで、この世を去った人たちのたましいはどこに行くのか、という質問に対して、答えはない。なぜならそこは、神のみが知り得る領域だからである。
私は、クリスチャンになったばかりの頃の集会で、「クリスチャンでない私の両親は、天国に行けない」と言われたことがある。かなりショッキングな教えであった。神は愛なるお方であるとだけ、信じていた私にとって、その真逆となるような神のさばきを、当時の私は受け入れることができなかった。
その後、「クリスチャンではない人は天国に行けない」という言葉は私の中で呪いの言葉になり、それが真実なのかを模索することが、私の信仰生活のベースとなっていった。
そして10年後、父が突然この世を去った。通夜に駆けつけた私がまずしたことは、キリスト・イエスを知らないで死んでしまった父のための、悔い改めの祈りであった。父の遺体が眠る棺桶の前にひざまづき、何度も何度も、悔い改めの祈りをした。そして、私の信仰のゆえに、どうか父のたましいを救ってください、と祈った。
しかし頭の中では、「クリスチャンでないなら、天国に行けない」という言葉に苛まれ、父のたましいは行くあてもなく、いつまでもさまよっているような恐怖心に駆られる毎日であった。
イエスを知らないで死んでしまった父を思い、私のたましいも安らぎを得ないまま生活をしている中、あるメッセージに出会った。それは、私が抱えていたあの言葉についてのメッセージであった。
「クリスチャンは天国行きの切符をいただいている。では、クリスチャンではない人が死んだらどうなるのか」。
私は全神経を集中させて、その答えを待った。そしてその答えはこうであった。
「それは、誰にもわからない。そこは神の領域である。だから、信仰がなかったから天国にはいけない、などと決して言ってはいけない。人の死の瞬間のことについては、その人と神との間のことであり、誰にも知る由はない。私たちにとって大切なことは、神は愛であることを信じる信仰である。神の愛にゆだねましょう。」
父が天国に行ったのかどうかは、今もわからない。しかし、神は愛であった。神は、人が滅びの道に行くことを、深く悲しまれるお方である。
きっと父の死についても、愛なる神は、はらわたがわななくほどに悲しんでくださったに違いないと思う。
「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。天が地上はるかに高いように 御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように 主は ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留めてくださる」(詩篇103:8−14)
祈り:愛する天の父よ。御名を崇めます。主よ、あなたの深い愛に感謝いたします。どうか、日本の家族に福音を伝えることができますよう、導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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