2022年5月1日 ディボーション

イザヤ書 1章


 今日から「預言書」と言われている「イザヤ書」にはいる。

 イザヤ書は、聖書全巻がこの書にみんな含まれていると言われている。「聖書の花」とも言われているらしく、又、主イエスの生涯を予言する聖句が余りにも多いので、「第五福音書」と呼ぶ学者もいると言われている。

 イザヤと言う人は、祭司であり王室とも深い関係をもっていたと言われていたようだ。特にヒゼキヤ王は彼をとくに信頼し、アッシリア帝国が攻撃してきたときは、彼に祈ってもらい、その忠告に従ったと言われている。(37章)

 イザヤ書1章は、イザヤが南王国の王と民に対して、真の神を忘れて自分勝手にふるまっている罪を指摘している。二つの罪が述べられている。一つの罪は、9節までに述べられている背きの罪である。神に選ばれた民であるにもかかわらずに神を捨て、挙句の果て、病と傷で弱り果ててしまって、敵の侵略で国は荒れ果ててしまったのである。第二の罪は、偽りの罪である。形だけの犠牲のささげもの、不義と、きよめの集会を開き祈りを捧げたのである。しかし、実際には、17節、「善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」の教えに全く反対のことをしていたのだ。

 それでも、神は、18節で「さあ、来たれ、論じ合おう。」と呼びかけられるのである。そうすればどうなるかは次のみことばで語られておられるのだ。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(18節抜粋) 主の御声に聞き従うなら赦されると宣言されるのだ。何という神の憐れみにみちた恵みだろうか。さらに、24節以降で、「ああ、わたしは逆らう者に思いを晴らし、わたしの敵に復讐する。」(一部抜粋)とさらに、主は宣言されておられるのである。主ご自身が復讐すると。これほどまでにして、神は選民を愛されておられるのだ。その神の呼びかけに応答できないでいるのは、旧約時代の選民だけではなく現在の私達にも起こりうることではないだろうか。特に私自身は、神のみ声がさえぎられて、従っていくことができないことが多々にある。そのような時は、神へ方向転換していけるように、ただ、ただ、神に、悔い改めすることだけである。



祈り:

 愛する天の父よ、形だけの信仰に終わらず、常にあなたのみ声がさえぎられないように、

義なる道へと導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。

アーメン。


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