2022年4月8日 ディボーション

ルカの福音書 2章


 泥水の中で、凛として咲く花がある。water lilyと呼ばれるスイレン(睡蓮)だ。

 スイレンは、泥の中に根茎を張り、水面に浮かぶ葉の上に美しい花を咲かせる。きれいな水の中では小さな花しか咲かず、ヘドロのように濃いドロドロした泥であればあるほど大きな花を咲かせる。

 泥水の中で生育するにもかかわらず、泥にまみれることは決してない。なぜならスイレンの葉は、防水スプレーを吹きつけたように水を弾く特性があり、葉についた水滴と一緒に、汚れや虫も絡めとって流してしまうからだ。

 

 イエス様は、神聖な神のひとり子であるにもかかわらず、罪のはびこる汚れた人間の世界に生まれた。

 清潔で上等なベビーベッドではなく飼葉桶の中で眠り(7節)、他のユダヤ人と同じように割礼を施され(21節)、成人するまで両親のそばにいて仕えた(51節)。


 イエス様の導き役となって働く聖霊は、当時いちばん貧しく低い身分であった羊飼いたちのところに来て言った。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(10、11節)


 神は、裕福な家ではなく、貧しいヨセフとマリアのもとにイエス様を授けた。

 子どもが産まれた後、モーセの律法によるきよめの期間を経て、子羊1匹と鳩1羽を主に献げる儀式を迎える。もし羊を買う余裕がなければ、2羽の鳩を献げものとせよ、とレビ記12章に書かれている。

 イエスの両親は、ルカ24節「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」を献げるためにエルサレムへ行った。献げものは鳩だけだ。羊を買う金銭的余裕がなかったことがうかがえる。


 また、この2章には、シメオンとアンナという2人の人物が登場する。

 シメオンは正しく敬虔な人で(25節)、彼の上には聖霊がおられた。アンナは夫を亡くした女預言者で(36節)、宮を離れず夜も昼も神に仕えていた。

 2人は、イスラエルが慰められるのを待ち望み、エルサレムの贖いを待ち望む高齢者だった。


 身分の低い羊飼いたち、貧しいけれども律法を守る従順な両親、そして、神に感謝の祈りをささげる敬虔なお年寄りたち。

 彼らのような、小さく、弱く、貧しい人々にいつくしまれ、知恵を増し加えながら幼少時代を過ごされたイエス様。

 神の子であるにもかかわらず曲がった邪悪な人間社会に生まれ、泥沼のような環境の中でも決して腐敗することなく、清く凛々しく生き抜かれた。私たちのために。


 苦難の中でこそ、きれいな花を咲かせることができる。そうですよね、イエス様。


「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2章6〜8節)


 愛するイエス様。罪深い私と同じ者となるために、神であるあなたが人となってくださったこと、そして、今も私たちと一緒に生きてくださっていることが心の支えです。感謝いたします。主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


閲覧数:48回

最新記事

すべて表示

ルカの福音書 24章 『インマヌエル@エマオの道』 ”エマオの道”の、珠玉のエピソードはルカにしかない。私たちキリスト者にとって、エマオの道は、うっとり垂涎の、憧れの旅路である。だってイエスさまが同伴してくださるんだから! 前章でイエスさまは二人の犯罪者とともに十字架にかかられた。犯罪者の一人はイエスさまをののしったけれど、一人はイエスさまを神とあがめ無罪を主張した。その時、イエスさまの言ったみこ

ルカの福音書 23章 群衆がしつこく大声をあげ続けた結果、彼らの主張が通り、イエス様が十字架につけられた。何が何でも力づくで要求を押し通そうとする人間の内に渦巻く闇の力は、とてつもなく強い。何ひとつ罪を犯さなかった者を殺すことさえできるのだから。 群衆の扇動によって十字架につけられたイエス様は、こう言われた。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(

ルカの福音書 22章 「みこころがなりますように」 コロナ禍以前、ある兄弟が教えてくれた。「何でも天のお父さんにお願いして祈ったらいいよ、それがみこころならば、必ず叶えて下さるから。」そうか祈ってお願いしたらいいのか、と思い勝手なお願いばかりの祈りが続いた。そのうち私の人生の中で機転となる一つの願いが叶い、そうかこれが御心だから叶えてくださったのかと気づく。全ては神のご意志ならば成る、ということで