2022年4月5日 ディボーション
雅歌7章
「花嫁としての教会」
雅歌は英語ではSong of Songs、 歌の中の歌、心の思い、愛を象徴する歌。自分達はこの5月に結婚44周年を迎えますが雅歌のように妻に言い寄ったのは結婚前だったかも。昨夜だったと言えると良いのですが。
この一見ソロモン王の熱烈ラブレターに見えるので、教会ではあまりこの雅歌からの説教は聞いたことが無い。あまりにも赤裸々な愛の表現に説教する牧師も赤面してしまうために説教箇所には選ばれないのかもしれない。熱烈だった頃の自分を思い出し恥ずかしいと思ってしまうのかもしれません。
しかし注意して読むと雅歌には、愛する相手として何度も「エルサレムの娘たち、シオンの娘たち」が描かれてもいます。ただ単なるラブレターだとしたら雅歌が聖書の中に組み入れたはずはない。これは聖書にはイスラエルが神の妻であり、教会がキリストの花嫁という考えが根底に流れているからこそ聖典に加えられたのです。
神様の奥義は、神の家を建てて人と共に住むことです。そのために御子イエスの花嫁を迎入れることになります。確かに御子はインマヌエル(神はわたしたちとともにおられる)となって地上に来られました。この雅歌には神のエルサレムに対する愛と、背後には主キリストの花嫁への愛が描かれている書なのです。
教会が花嫁という事がはっきりと書かれているみことばは、コリントの手紙第二11章2節「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。 私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」ですから雅歌をラブレターとして読むと同時に神の愛、召された民・ユダヤ人への愛の表現として読むのです。
6節「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。」
10節「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」
目はヘシュボンの池、鼻はダマスコの方を見張る.頭はカルメル山のようにそびえ。あなたの口は最良のぶどうのようであれ。と、シオンへの愛が語られています。
ユダヤ民族は良く葡萄畑にもたとえられます。ヨハネ15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」しかし旧約聖書ではこのイスラエル民族は酸いぶどうと示されています。イザヤ書7:4「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」
農夫である父なる神が良いぶどうの木を植えて畑を耕したにもかかわらず、ユダヤ民族は真の農夫を敬わず偶像礼拝に陥って神から離れてしまった姿が描かれています。これは今の世においては神の子としての資格がありながら神から離れている人も指すのでしょう。それでも神は妻であるイスラエル民族を愛し続けておられ、我々のような異邦人も主イエスによって選ばれた民、ユダヤ民族に接木して頂き、神の子として召される者、愛される子どもとして下さいました。何という神の愛でしょう。
聖書はエルサレムをシオンと言い換えたりします。ヘブル語では町は女性型で呼ぶので、親しみを込めて、いわば稚名でエルサレムを親しみをもって表す時にはシオンとなります。そして民族としてのイスラエル12部族の名前も時代によって呼び方が変わってしまいます。イスラエルとユダという場合には、ソロモン王の後の後継者争いの中で北王国にはイスラエル民族の中の10部族が住んでいたので北王国をまとめてイスラエル、南王国にはユダ族とベニアミン族がいましたが総称してユダと読んで北王国と南王国を示す場合もあれば、その後に北王国が滅ぼされ残った南王国・ユダ王国を指し、やがて現代に至るまで全てのイスラエル民族の総称を12部族の中のユダ部族を代表してよび、一般的にユダヤ人と呼ぶ様になってきました。この召された民であるユダヤ人に主イエスを通じて接木されて神の子となり、終わりの日にはラッパの音と共に天に引き上げられ主イエスとの婚礼、大宴会に招かれる者たちは何と幸せなことでしょう。婚礼式の招待状を受け取りましたか?
祈り
愛には束縛はありません、そこには本当の自由があるから
愛には疑惑はありません、そこには最大の真理があるから
愛には恐れがありません、そこには最高の道徳があるから
どうかこの愛を心に植えて下さい、溢れて周りの人にも幸せが伝わりますように