2022年4月29日 ディボーション

ルカの福音書 23章


 群衆がしつこく大声をあげ続けた結果、彼らの主張が通り、イエス様が十字架につけられた。何が何でも力づくで要求を押し通そうとする人間の内に渦巻く闇の力は、とてつもなく強い。何ひとつ罪を犯さなかった者を殺すことさえできるのだから。

 群衆の扇動によって十字架につけられたイエス様は、こう言われた。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節抜粋)


 私が初めてこの聖書箇所を読んだ時に思ったことを、今日は書いてみようと思う。

 私は、父親にひどい虐待を受けて育った。母親は、私を助けてくれたことは一度もなく、父のいる前では、私が悪い子だからと言って父の側につき、父のいない時には、父を精神の平衡を失った罪人扱いとし、私に向かって延々と父の悪口を言った。


 私は、この世界の何が真実で何が嘘なのか、何が正しくて何が正しくないのか、わけがわからないまま大人になった。いちばん近い存在である両親を信頼することができず、そして、人間が嫌いになっていった。

 怒りと憎しみと哀しみがいっぱい詰まった重いバックパックを背負い、深い井戸の底に落ちてしまった。そこで絶望しながらもとりあえず息をしていた私に、優しい光をそっとあててくれたのが、喜びと励ましと愛がいっぱい詰まった聖書だった。


 強くなれ、と神様から言われているような気がした。

 強さとは、勝ったり負けたりする強さではない。私の心を蹂躙しようとする力を跳ね返す力ではない。

 たとえばこの世の不公平さ、不条理、不運、苦難や不幸、誤解や無理解、誹謗中傷、冷酷無情な人間、そういったものを黙って受け入れる忍耐強さを身につけなさい、と神様が言っておられるのではないかと感じとった。

 そしてそれはたぶん、いちばん手に入れるのが難しい種類の強さであり、同時に、最も手に入れる価値のある強さなのだろう。

 私は、その強さを手に入れたいと思っている。なぜなら、自分が強くなることで、小さくて弱い存在を守り、彼らにあたたかい光をあてることができるかもしれないからだ。人を助けることは私にはできない。でも、小さな声に耳をすませ、弱いものに味方し、彼らに声援を送ることならできるはず。

 あとは、神様から彼らに直接メッセージが届くだろう。強くなれ、と。

 イエス様の十字架を見上げるとき、私はいつもそんなふうに考えている。


愛する天のお父様。

今、人生に不安を感じている人の心を支えてください。

今、哀しみに打ち沈んでいる人の心に寄り添ってください。

今、悔しい思いをしている人の心を鎮めてください。

今、苦しみの中にある人の心を癒してください。

主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

閲覧数:69回

最新記事

すべて表示

ルカの福音書 24章 『インマヌエル@エマオの道』 ”エマオの道”の、珠玉のエピソードはルカにしかない。私たちキリスト者にとって、エマオの道は、うっとり垂涎の、憧れの旅路である。だってイエスさまが同伴してくださるんだから! 前章でイエスさまは二人の犯罪者とともに十字架にかかられた。犯罪者の一人はイエスさまをののしったけれど、一人はイエスさまを神とあがめ無罪を主張した。その時、イエスさまの言ったみこ

ルカの福音書 22章 「みこころがなりますように」 コロナ禍以前、ある兄弟が教えてくれた。「何でも天のお父さんにお願いして祈ったらいいよ、それがみこころならば、必ず叶えて下さるから。」そうか祈ってお願いしたらいいのか、と思い勝手なお願いばかりの祈りが続いた。そのうち私の人生の中で機転となる一つの願いが叶い、そうかこれが御心だから叶えてくださったのかと気づく。全ては神のご意志ならば成る、ということで