ルカの福音書 18章
イエスの弟子達への教えが続く。
いつでも祈るべきこと、失望しないことの教えを5つの例えで述べられている。
1)不正な裁判官でさえもやもめの願い事に応えるなら、正しい神は昼も夜も叫び求める民の祈りに応えられないはずがないと教えられている。大事なことは、8節のみことば
「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。
だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」である。どういうことかというと、忍耐して祈り続けられる信仰は、主の再臨の日まで主を信頼し続けられるかということである。そこのところを通して自分に示されたことは、日頃の小さな祈りを絶えず実行していくことによって、忍耐して祈り続ける信仰に辿りつけるのではないかということだ。そして、それは、日々のディボーションがどれだけ大事かということにつながっているのである。
2)二人の祈り人(パリサイ人と取税人)を通しての祈りについての教えである。
神は、パリサイ人のような自分が立派であるという祈りではなくて、13節の取税人のような、「神様、罪人の私をあわれんでください。」という謙遜な祈りをすることを求めておられるのである。それこそが、神が義と認められる祈りであり、又、14節で「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」と語られたのだ。
3) 15節では、幼子たちを通しての教えである。
神は、幼子のようなpureな心で神の国を受け入れなければ入ることができないと語られている。
何もできない者でも、主イエスを信頼する者は神の国に入ることができるのだ。
4)次の教えは、品行方正なある指導者を通しての教えである。
ある指導者は、戒めを守れば永遠のいのちを受け継ぐことができると思っていたが、神は、22節で、「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と語られた。その人は大変悲しんだということである。なぜなら、その人は大変な金持ちで、それをすてることができなかったから。弟子達は、すべてをすてて主に従ってきたのである。でも、31節から34節で語られるイエスの十字架の意義が弟子達には理解できなかったと書いてある。なぜなら、彼らにはこのことばが隠されていたから。
この箇所を読むときにはいつもマザーテレサのことを思い出さずにはおられない。彼女こそ本やドキュメンタリー映画などで最も身近で感じることのできる、すべてをすてて主に従って生涯を貫き通されたお一人である。
5)35節以降は、イエスがエリコに近づいたときに、一人の目の見えない人の癒しが描かている。「主よ。目が見えるようにしてください。」と必死で祈り求めることは、今の私達にも必要なことではないかと思う。
18章を通して語られたことは、主イエスは、富に頼らず、自分の義に頼らずにただ主のみに頼る生活をすること。そして、いつでも幼子のように謙遜になり、失望しないで主に祈り求めることだということである。イエス様は、これらのことを私達に望まれておられるのだ。
祈り
天の父よ、御名を心からほめたたえます。
今日のみことばを通して自分がどれほど信仰に劣っているかを知ることができて心から感謝します。悔い改める道へと示して下さってありがとうございます。いつも祈り、失望しないでただ主にのみ依り頼むことができますように助けて下さい。心から感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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