2022年4月17日 ディボーション

ルカの福音書 11章


イエス様が教える祈り

「父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。

 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。

 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

 私たちを試みにあわせないでください。」2 〜4節抜粋


 クリスチャンになって祈る時、神様を「父よ」と呼びかけることができなかった。「父よ」と呼ぶことは肉の父の顔を思いだすからだ。別に虐待されたわけではないが、厳しすぎて、怖くて、一緒にいると居心地が悪くなる時があり、逃げたくなる気持ちにさせられることが多々にあった。でも、徐々にそのようなことはなくなってきて、今では祈る時には自然に「父よ」と呼ぶことができるようになれた。なぜなら、ある牧師が「父なる神様は、私たちにとって、安心できるお父さん、信頼できるお父さんなので安心して祈っていいんだよ。」ということを教わった時に、なんともいえない平安が心に満ち溢れて、肉の父への思いも感謝に変えられたのである。

 2節から4節のイエス様が教える「主の祈り」は、すべてが入っている祈りで、もう大丈夫だということである。ある学びで、他者に傷つけられたらどうするかと問われた時、一人の姉妹が「主の祈り」を祈ると言われていたことが心に響いた。「主の祈り」こそ私たちの為のすべてが入った祈りであるのだ。イエス様の教える祈りは、すべてがお願いする祈りである。それでいいのかと、そんな図々しい祈りでいいのかと思わさられるけれど、イエス様がこう祈りなさいと言われているのだから大胆にお願いする祈りでいいのである。イエス様の十字架の血潮によって救われた私達は、救われたという強い確信をもってこのイエス様の教える祈りを真剣になって祈っていくことではないだろうか。


「さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。』」29〜30節


 何でも「しるし」を求める時代である。それは、奇跡や病の癒し等々の話しを聞くだけで心が揺らいで信じてしまうという、いわゆるご利益信仰になることである。だが、イエスさまが伝えたかったのは、与えられない「しるし」ではなくて、与える「しるし」、つまりイエス様がこの世の「しるし」となられることを伝えたかったのだ。それは、イエス様自らが十字架に架けられることなのだ。墓に葬られて、3日目に復活することだ。そこの箇所を読んでいて、復活されたイエス様が弟子達に現れた時にトマスがいなかったので、彼はイエスの傷跡を見るまではイエス様の復活を信じなかったのである。そこでイエス様が言われた有名な御言葉が示された。


「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

                           ヨハネの福音書20章29節抜粋


 目に見えることを信じることは簡単なことである。そして、「しるし」は求めることはできるが与えることはできないのである。目に見えないでイエス様の復活を信じるなら、それは真の神が与えた信仰であるということだ。そして、「しるし」はだれでも求めることができるが、だれも与えることはできないのだ。できるのは、ただお一人。イエスキリストは、ご自身を通されて私達に「しるし」を与えられたのである。


祈り:

愛する天の父なる神様。

イエス様の祈りの教えを新たに学ばせていただけて、御言葉を与えてくださって感謝します。

「しるし」を求める信仰でなく、目に見えることを信じるような信仰でなく、常に真の神を第一とする信仰生活を歩むことができますように導いて下さい。レントの期間中に大きな恵みが与えられたことは感謝でした。今日はイースター。イエス様、私達の罪の為に十字架に架かって死なれ3日目に復活して下さって心から感謝します。イエス様の十字架の愛を多くの人々に伝えることができますように私達を用いてください。

感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


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