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2022年4月16日 ディボーション

ルカの福音書 10章


『イエスさまの境界線』


 10章は有名なみことばやエピソードが多い。それらに触れるたびにアーメンしてきたつもりだけれど、どれだけ実践しているかおぼつかない。悔い改めても、悔い改めても‥‥啄木のように「じっと手を見る」心境になる。でも、そんな私でもお見捨てにならないイエスさまにすがるしかない。

「そこに平安の子がいたら、あなた方の平安はその人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなた方に帰って来ます。」6節

「全世界に出て行って福音を伝えよ」と命じられたイエスさま。そして「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」とも約束してくださった。(ヨハネ14:27抜粋)

 私がみことばを受け取って、誰かに福音を伝えようとする。でもうまく話せなくて、相手にちゃんと伝わらなくて福音を拒否されたとしても、私は心を乱す必要はない。今のベストは尽くしたのだ。そしてその時、私の中のイエスさまの平安は、私のところに帰ってきて増し加わってくださる。6節はイエスさまの恵みだ。一番大切なのは私の立ち位置。イエスさまにとどまっているか否か。

 それは人間関係における”境界線 boundaries”の保ち方の教えでもある。イエスさまは10節で、伝道を受け入れないなら、大通りに出てこう言いなさいと促す。

『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』(11節)

 啖呵を切って帰って来ていいよ、というのではない。みことばを語り、主を伝えることはとても大変で責任のあることだ。だけど私たちには、イエスさまを伝える責任があるのであって、聞いた人の責任を負う必要はない、ということではないだろうか。「足に付いた埃」とは受け取る側の選択と責任、ということ。イエスさまを伝えたら、その軸足は「主と受け手の関係」に移行され、私は外れていい。「あとは主にまかせなさい」とイエスさまが請け負ってくださる。そしてイエスさまは決して強要しない。それがイエスさまの境界線なのではないだろうか。

 私はルカでイエスさまの教えを聞き、奇跡や癒しを見ました。私はイエスさまの行いに応答したいです。英語の応答 response が responsibility 責任 に転化するように、イエスさまの十字架を伝える者となれますよう私を用いてください。

 復活を感謝してイエスさまのお名前で祈ります。アーメン

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