2022年4月12日 ディボーション

ルカの福音書6章

 

「貧しい者たちへの安息日」

 

 主イエスは、朝9時にカルバリの丘で十字架に打ちつけられた。そうして苦しみながら亡くなったのが、安息日がまさに始まろうとしている金曜日の午後3時であると聖書には記されている。


 ちょうどアリマタヤ出身で金持ちで有力な議員であったヨセフは、ローマ総督ピラトにイエスのからだの下げ渡しを願い出た。そして自分の所有する新しい墓にイエスのからだを納めたのは、まさに安息日が始まろうとしている金曜日の夕方であった。安息日が始まるとイエスのからだを運ぶことが出来ないので、大急ぎで墓まで運んだと想像できる。


 安息日(サバース)は、金曜日の夕方、正確には日没の後に星が3つ数えられる時から始まり24時間続く。はたしてこの時代のエルサレムの日没は何時であったのか正確には判らないが、恐らくそれは夕方の6時前後と考えられる。イエスの遺体を引き取ってから墓に納め自宅に戻るまでを3時間以内で急ぎ手配しなければならなかった事だろうと想像できる。


 ちなみにイエスが富める者の墓に葬られることも預言の一部であった。イザヤ書53章9節抜粋「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。」 


 そしてイエスのからだがヨセフの墓に納められた様子を見ていた女たちがいた。彼女たちは、遠くガリラヤから主と共に旅をし、身の回りの世話をしていたマグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリアたちであった。彼女たちは、お墓参りのために香料を用意して、もう少し時間をかけてお別れをしたい、丁寧に手厚く葬儀をしたいと思ってヨセフが備えた墓に安息日が終わってから行ったわけだ。


 もともとなぜこのように安息日(サーバス)があるかというと、創世記で神は第七日目を祝福し、この日を聖なるものとされ、なさっていたすべての業をやめられたことから安息日が始まったというわけだ。


 本来の安息日の目的は休むことにあるのではない。神に創造された被造物である人間が神と交わる日として設けられたのである。我々が神に感謝し、創造主である神、今では神がこの世に送られた御子イエスを思い、主のみことばを噛みしめながら、聖霊の導きを確認する日となった。


 しかし現代に至るまでユダヤ人の安息日への理解は、断食して労働を避けること、病気の癒しさえも労働とみなすような安息日の規則を次々に作り加えてしまった。安息日に労働をしてはいけない、その労働とは何かをはっきりと規則として決めてきた。


 神との交わりが主題であるのに、規則を重視してしまった。例えば現在でもイスラエルのホテルでは、安息日になると自動的にエレベーターは各階止まりとなって動くという、それはエレベーターに乗ってボタンを押すという行為が労働とみなされて安息日規定に触れると考えるからだそうだ。


 何という本末転倒の律法主義になってしまったのだろう。主イエスはハッキリと言われている。ルカ福音書6章5節「そして彼らに言われた『人の子は安息日の主です。』」


 この主イエスと交わるために日々の労働を休み、食事の準備に追われる手を安め、主のみことばを反芻し、心の内におられる助け主、聖霊の力をもって祈り、感謝して生きる力を得るのが安息日であり、人の子・主イエスが安息日の主なのだ。


 イエスは語られた。6章20節(抜粋)「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」と、マタイ福音書の山上の垂訓を思わせるみことばだ。


 少し前に戻ってルカ4章18節(抜粋)でも「貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」とイザヤ書61章を引用して話されている。


 イエスが良い知らせを伝えに来られた相手は、この世の富で満ち足りた者、自分の努力で稼いだ者、多くの天からの配分を受けた者たちではなく、少ない配分しか受けていない貧しい者たち、自分は信仰が足りないと自覚している貧しい者たちだ。


 そんな者たちに対してイエスは、神の国ではこの世とは異なり少ない配分を受けた者たちは逆に多くの恵みを受けるという将来の希望を与えに来られたのだ。


 貧しい者、自分を罪人であると自覚する砕かれた心を持つ者たちの救いのために主イエスは来られたのだ。 


祈り

 信仰の足りない自分に代わって十字架にかかって私の罪を贖い、復活によって私たちの将来への希望を確実なものとして下さった主イエスを、安息日の主として崇めることができることを心から感謝いたします。

 どうか未だ主の救いを信じられない方々、信仰から離れてしまった方々、救いの確信が得られない方々にも安息日の平安を分かち合えることができますように!

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