2022年4月11日 ディボーション

ルカの福音書5章


『みことばに従う』

 いよいよこの章から、シモンの仲間であるゼベダイの子ヤコブやヨハネ、またここには掲載されていないが、シモンの弟アンデレが、イエスの弟子として召命を受ける。また、レビと呼ばれているマタイもイエスからの召命を受け、活動を共に始める。

 シモンたちは漁師であった。彼らはガリラヤ湖のどこで魚が獲れるのかを知っていた。しかし、その日に限って魚は1匹も獲れなかった。しかし、イエスはシモンに湖の深みで網を下ろしなさい、と言われた。湖の深みで魚が獲れたことがないのを知っていながらも、シモンはイエスの言葉に従って網を下ろした。すると、大量の魚を獲ることができた。この出来事によってシモンたちはイエスを主と信じ、すべてを捨ててイエスに従った。

 レビは、収税人であった。彼の仕事は、ローマ帝国の代理人として、税や罰金を徴収することであった。この仕事は、大きな利益をもたらすものであったが、そのため、同胞からは憎まれ、罪人として扱われていた。そのような彼にイエスは目を留められ、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼もまた、すべてを捨ててイエスに従った。

「すべてを捨ててイエスに従った」という言葉に感動する人は多いのではないかと思う。私自身もそうである。しかし、当時イエスに従うことは迫害に遭うことを意味していた。また、イエスに従ったからといって、裕福になった人もいないのである。

 イエスの十字架による贖いや聖霊によるバプテスマはまだ先の出来事である。にも拘らず、シモンたちやレビは「すべてを捨ててイエスに従った」のである。

 ここにある「イエスに従った」とは、物理的にイエスの行くところすべてに従った、という意味もあるだろうが、「イエスが語るみことばに従った」が正しい解釈であると思う。みことばに権威があったからである。 

 物質的に豊かな時代に生きる私たちにとって、物質的にすべてを捨てることは無理である。車がなければ、ハワイで生活するのは非常に不便であるし、携帯のない生活など想像できない。また、コンピューターや各電化製品を捨てて生活することなど到底、無理である。

 では、今を生きる私たちに神が求められていることとは、なんだろうか。


 それは、物質的な豊かさや、この世の風潮が生み出す価値を無価値とし、神のみことばにのみ価値を置いて従うことではないだろうか。

 見た目には理解し難い判断であっても、みことばに従っているなら、神は必ずそれを祝福してくださる。自分の願った通り、望んだ通りの結果ではないかもしれない。しかしそれが、神の目からみた最善なのである。


 神の国は近い、とイエスは言われた。日々、みことばに従う者たちが起こされるよう、活動を広げていきたいと願う。

祈り:愛する天のお父様。あなたのみことばに従う者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

閲覧数:49回

最新記事

すべて表示

ルカの福音書 24章 『インマヌエル@エマオの道』 ”エマオの道”の、珠玉のエピソードはルカにしかない。私たちキリスト者にとって、エマオの道は、うっとり垂涎の、憧れの旅路である。だってイエスさまが同伴してくださるんだから! 前章でイエスさまは二人の犯罪者とともに十字架にかかられた。犯罪者の一人はイエスさまをののしったけれど、一人はイエスさまを神とあがめ無罪を主張した。その時、イエスさまの言ったみこ

ルカの福音書 23章 群衆がしつこく大声をあげ続けた結果、彼らの主張が通り、イエス様が十字架につけられた。何が何でも力づくで要求を押し通そうとする人間の内に渦巻く闇の力は、とてつもなく強い。何ひとつ罪を犯さなかった者を殺すことさえできるのだから。 群衆の扇動によって十字架につけられたイエス様は、こう言われた。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(

ルカの福音書 22章 「みこころがなりますように」 コロナ禍以前、ある兄弟が教えてくれた。「何でも天のお父さんにお願いして祈ったらいいよ、それがみこころならば、必ず叶えて下さるから。」そうか祈ってお願いしたらいいのか、と思い勝手なお願いばかりの祈りが続いた。そのうち私の人生の中で機転となる一つの願いが叶い、そうかこれが御心だから叶えてくださったのかと気づく。全ては神のご意志ならば成る、ということで