2022年2月8日ディボーション

マルコの福音書10章


『わたしに何をしてほしいのですか。』


 ミズリー州の洞窟の見学に出かけた事があった。渡された懐中電灯を片手に狭い入り口から入り込むと内部は随分と大きい。すりばち状の鐘乳石というのが何百年もかけて天井からのしずくから出来たそうだ。

 そのうち案内の係の人から、電灯を消して下さいと言われ見学者がいっせいに灯りを消すと、真っ暗闇の世界、眼を開けていても、閉じていても暗闇がスミの中に浸かっているように全く光が無い世界を初めて経験した。光の見えない暗黒の状態は神の光が見えない暗黒を連想させる。この暗闇とマルコ10章全体の事柄に共通しているものは何かと考えてみた。

 10章の内容は、人の離縁について、金持ちの男 25節「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」続いて弟子達の願い、あたかも将来の約束、右大臣と左大臣の地位を求めるかのようなマルコとヨハネの願い、そして最後に盲人バルティマイの目の癒しが共有しているものは何なのだろう。神が結び合わせた結婚を引き離してしまう、人の心が頑なせいで神の祝福の光が見えない。

 次に自分は律法を守っていると言いながらも、神のことよりも家の財産が大切になってしまっている男、心の拠り所が神の栄光には無く、黄金の光に魅せられている。主イエスの弟子達でさえ、これからローマ帝国から主イエスによって独立を勝ち取り、ユダヤ王国を立て直してゆく中で、自分たちの地位、名誉を求めている、出世を夢見ている。

 44節「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」 十字架に至るまで従順であった主イエスの心がまだまだ判らないヤコブとヨハネの姿は、この世の幸せだけを願う、我々の姿であるかもしれない。しかしこの二人もやがて聖霊を受けると、ヤコブは使徒の中での最初の殉教者となり、ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証しを黙示録に書き残す仕事が与えられていった。主イエスはそのような無知な私たちを赦して、助け主を与えて下さる。イエスの光が見えない状態は、眼を開けていても洞窟の中の暗黒に居るのと同じ事。そこで51節「イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人はいった。「先生、目が見えるようにしてください。」

 目が見えないこと、主が見えないのは、離縁を求める者も、財産が大切な男も、弟子達の出世の願いも、この盲人バルティマイも、我々も同じである。我々はこの世が肉眼で見えるので気がついていないが、実はあの洞穴の中にいる時と同じように、神の光を見る能力を失っている。

 我々が、この世に生まれて来た誕生も、この世を去る死も、我々のコントロールする事ではなく、神のなさる事、結婚も神による導きです。その人生の流れの中で主が我々に問いかけておられます。わたしに何をしてほしいのですか? 


祈り 

 皆のしもべとなろうとしても、妻に尽くそうとしても、自分のプライドが邪魔しておりなかなか素直にみことばに従えません私に、主の力を注いでください。神の大能で小さき自分の霊の目を開けて欲しいのです。そうして主がなさりたい事が自分のしたい事として示されますように アーメン


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