マルコの福音書9章
『分派的意識を取り除く』
イエスによる弟子訓練が進むにしたがって、弟子たちは、次第に「自分たち」と「自分たちではない人たち」を区別するようになっていた。ヨハネはイエスにこのように報告している。
「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(38)
「私たちについて来なかった人」つまり、自分たちの仲間ではないから、イエスの御名によって悪霊を追い出すことをやめさせようとした、と報告したのである。
イエスの御名によって悪霊を押し出していたその人は、信者である。信者でなければ悪霊を追い出すことはできない。使徒の働き19:13−16にはこう書いてある。
「ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」」
信者でないことは悪霊にもわかる。しかし、ヨハネが報告しているこの人は悪霊を追い出していたと、ヨハネ自身が証言していることから、この人は悪霊を追い出すことが出来ていた。つまり、信者だったのである。
自分たちと同じ信者であるにも関わらず「私たちについて来なかった人」だったから、やめさせようとしたと報告するヨセフに、イエスはこう答えられる。
「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(39−40)。
イエスを主と信じる者同士なのに、「自分たち」と「自分たちではない人たち」とに分けて考えてしまっていたヨハネに、イエスはイエスの弟子としての教えを授けた。
キリストに従う者同士受容せよ、つまずきの原因となってはいけない、また、つまずきの原因は取り除くこと、である。
この章を学びながら、自分にもそのような区別する心があることを認めざるを得なかった。頭では、同じ神の家族、と理解していても、心のどこかでは違和感を感じているのである。この違和感はどこから来るのか。それは、不安から来る、とある牧師から教えられた。確かに、いつもと同じでない状況というのは不安になる。私たち人間はもともと保守的な生き物であるから、不安を感じるのは自然なことである。ただ、イエスがここで教えられているのは、「イエスの名によって」集められている者同士で、分かれるようなことあってはいけない、ということである。
イエスは、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方である」と言われた。イエスに反対しない人はみな味方なのである。
祈り:天のお父さま、主に従う者同士、愛し合うことがイエスさまの教えであることを学びました。誰でも、イエスさまを信じて、その御許におられる方々、またそこに近づこうとされている方々は私の味方です。どうか、お一人お一人を大切に愛することができますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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