マルコの福音書 8章
イエスは、4000人の群衆に奇跡をおこされる。7つのパンと少々の魚で群衆の空腹を満たされる。6章では5つのパンと2匹の魚で5000人の群衆の空腹をみたされたのである。そのような奇跡や多くの人々を癒されたイエスの御業を目で見て、耳で聞いてきたにもかかわらずパリサイ人たちは、イエスに議論を始めるのである。つまり、天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。私達も常になにかのしるしを求めようとすることがある。そのしるしがなければ正当化されないのではという不安にかられることがある。だが天からのしるしを求めなくても私達は、イエスさまというお方を自分の前におくことによって不安な気持ちから平安な気持ちに変えられていくのである。それこそ34節で語られていることではないだろうか。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに
従って来なさい。」
自分を捨てるというのは、自分を無くすことではなく、神を否定しやすい自分を捨てるということらしい。神を否定し易い人間の性に注意し、そのような自分を捨て、この世に生を受けた意味を問いながら生きていくことを勧めているのであると解釈されている。主イエスの後ろに従うことである。
29節で、イエスは12人の弟子たちにお尋ねになった。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
この箇所は、2020年に関牧師が12使徒シリーズのクラスを持ってくださったところである。自分に置き換えてみて、自分ならどう答えるかという分かち合いで、大変興味があってよい学びを持たせていただいたところである。
さて、ペテロが開口一番で、「あなたはキリストです。」と、見事に的を射る発言をしたのである。イエスは大変喜ばれて、マタイ16:19でペテロに天の御国の鍵を与えると言われたのである。お調子者にしては上出来だったことだと思う。だが、その後が悪かった。イエスは、自分が多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。その時、ペテロはイエスをわきにお連れしていさめはじめたのである。ペテロや他の弟子たちは、その教えを理解することはできなかったのだ。だからペテロもイエスをいさめはじめたのでしょう。その時、イエスは、ペテロだけでなく他の弟子たちをみて叱ったのである。彼らを叱ったのではなくて背後にいるサタンに向かって、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われたのだ。サタンは、イエスが十字架に架かられること、死んで墓に葬られて、3日後によみがえられることを阻止しょうとしていたのである。
イエスの弟子たちへの教えは難解だらけである。それでも、弟子たちはイエスの教えに叱咤激励を受けながら学んでいく姿は、私達一人一人にも大いに学ぶべきことである。
祈り
愛する天の父なる神様。御名を褒めたたえます。
今日の聖書のみことばをありがとうございます。イエスさまの教えは私にとっても大変むつかしくてわからないことがたくさんあります。しかし、12人の弟子たちはわからないながらもイエスさまに従ってきました。私もイエスさまに常に従っていくことができますように、そして、あなたが何をお語りになっているのかを理解することができますように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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