マルコの福音書 6章
私の目は、コンタクトレンズなしでは生活できないほどの近視だった。おまけに加齢とともに白内障が進み、目に霞がかかったような見え方だった。
眼科医の勧めで白内障の手術を受けたところ、驚くほど視力が回復した。ぼんやりとしか見えていなかったものが、鮮明に見えるようになった。
ただ、山の稜線や夜空の星々、月の模様がクリアに見えるのは嬉しいけれど、顔の小ジワやシミは見えないままでもよかったのになと思う。
さて、これまでイエス様は、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くのたとえ話によって群衆に教え、様々な奇跡を起こされた。
その目的は、1章38節に書かれている。
「イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」」
悔い改めればどんな罪も赦されることを知らせるためにイエス様は来られた。
1章15節にも要約されている。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエス様は、言葉と行動の両方によって、父なる神とはどういうお方であるかを現してくださる。けれども、頑なな人間の心が、その福音を受け取ることを邪魔する。
イエス様につまずいてしまう人々の様子が、この6章に記されている。
まずは、イエスは大工だ、と言った人々。
イエスはどこそこの家の子であり大工ではないか、と限定されたものの見方をする郷里の人々に対し、イエス様は言われた。
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」(4節)
見てはいるけれど、実際には見えていない、ということがある。
たとえば、本を読む時、本を近づけすぎると字が読めない。
人間関係も同じで、近い存在であればあるほど相手の本質を見抜くのは難しい。昔からよく知る身内なら尚更のこと、自分の物差しで相手を評価しようとする。
物事を正しく認識するには、適切な距離が必要なのだと聖書は教えてくれる。
次に、イエスはヨハネの生き返りだ、と言ったヘロデ王。
ヘロデ王は、ヨハネを殺した人物ではあるけれど、もともとは、ヨハネが聖人だと知っていたし、彼の教えに喜んで耳を傾けていた。しかしヘロデ王は、つまらないことに意地を張り(26節参照)、ヨハネの首をはねてしまった。
もしヘロデ王が、意固地で頑なな心を捨てる勇気を持っていたならば、ヨハネを殺さずに済み、後ろめたさや恐怖に怯えることはなかったはず。
素直な人は得るものが多いが、頑なな人は失うものばかり。
そして、弟子たちは、湖上を歩くイエス様を幽霊だと思って叫んだ。
弟子たちは、たった5つのパンと2匹の魚で何千人をも満腹させたイエス様の御わざを間近で見ていたにもかかわらず、この時点ではまだ、神の子イエスを信じきってはいない。心の頑なさは、真理を見抜く力を弱め、妨害する。
「そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。」(51〜52節)
私たちが永遠にイエス様と共に生きることができるという福音を伝えるために、地上に来てくださったイエス様。
しかし多くの人々は、心の目ではなく、肉の目を通してイエス様を見てしまう。
「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(6節)
イエス様を拒否し、試し、裏切り、最後は十字架につけてしまった私たち罪人。
それでもイエス様は、人間を見捨てることなく、今もこうして私たちに福音を伝え続けてくださっている。現在も生きておられる。その恵みに感謝して祈りたい。
イエス様、私たちの霊的な目が開かれるチャンスをたくさん与えてくださり感謝します。肉の目ではなく、心の目で世界を見る者でいられますように。より深くあなたを理解する者へと成長させてください。
主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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