箴言14章
『主を恐れること』
14章1節から25節は、主を恐れる者と、そうでない者との対比が書かれている。イエスに出会う前、いや信仰を持った今でさえ、自分はいかに愚かであるかを痛感させられる。特に1節の「知恵のある女は家を建て、愚かな女は自分の手でこれを壊す。」は、離婚歴のある自分には、何度読んでも心が痛む箇所である。新しい新改訳聖書の訳はとても優しいが、自分が初めて読んだ共同訳聖書は、こう訳している。
「知恵のある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。」
クリスチャンになったばかりの頃、この聖句によって自分がいかに愚かで、無知で、浅はかな者であったかを思い知らされ、そんな人間は幸せを求めてはいけないと思った。罪を赦された者として歩みを始めたのに、である。
ここに、聖書を自分読みする恐ろしさがあると思う。聖書はすべて繋がっている書である。故に、その前後の文脈を無視すれば、その聖句の解釈は、聖書記者が意図するものとは全く違った解釈となる危険性がある。また聖書は神が本当の著者であるため、霊的に幼い心で読むとき、逆にサタンによって惑わされる危険性もある。ここに聖書を学ぶことの大切さがあると思う。
箴言のテーマは「主を恐れること」にある。これは恐怖心を抱け、ということではない。畏敬の念を抱け、ということである。主に信頼して従っていくことによって、滅びの道ではなく、たとえ死の中にあっても、そこには逃れ場があり、希望がある、と主は言われるのである。
箴言の言葉は非常に辛辣である。信仰のない人が読めば、かなり傷つくだろうし、怒り狂うかもしれない。しかしそれは事実だから、痛いのである。
自分の力で罪を赦すことも、きよくなることも出来ない人間は、知恵のある者と愚かな者について学んで、そして身を守れ、と箴言は語っているのだろうと思う。これらを覚えて守るとき、それは主を恐れることにつながっていくのである。
自分は、恐れ多くも、全知全能なる神の子とされ、御国を引き継ぐ者とされた。そのような者として、新たに14章を再読する時、私の心は痛みではなく、我が子を訓練しようとされる神の愛を感じることが出来た。アーメン、主に栄光あれ。
祈り:天におられる父なる神よ。みことばを食し、よく咀嚼することを教えていただき、ありがとうございます。さらに、みことばを学び、イエスさまから12弟子たち、そして私たちへと託された福音伝道の働きが栄えますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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