箴言1章
「主を畏れることは知識の初め」
今日から箴言のディボーション。前に学んでいた詩篇は私たちの信仰生活を助け、この箴言は日常生活を助けてくれる。なぜなら箴言は、そのほとんどを書いたソロモン王の知恵で満ちているからだ。知恵といっても世の知恵と箴言の知恵とは異なる。
我々の知恵・世の知恵はどこで学んだのか、それは学校教育からで、そろばんの塾に行っていた事を懐かしく思い出す。教育は読み書き計算の世界で、この世をどの様に理解して生き抜くか、勝ち抜くかの訓練の場であったわけだ。
しかしこの世を動かす真理や天の世界に関しては何の教えも受けなかった。学校教育では学べない課題があった。それは人の生きざまと死について、神と霊について、この宇宙の真の法則は自分にとって未知の世界であった。その代わり多くの地上で闘うための知恵を叩き込まれた。それは金勘定のそろばんであったり、もっと上の科学、文学、美術に及ぶ。しかしその知識は断片的で、中心点のない円のようで、覚えた知識を総合する中心の知恵には至らなかった。
聖書は語る、主を畏れること(恐れる 恐怖の恐れではなく、もっと原語に近い畏敬の畏れの漢字を使います)。この宇宙の創造主を知り、そのみわざとみことばを畏れることで全ての物、世の法則が見えてくる、地上、天上の法則を知る鍵である。全ての創造物を神の法則で造られた創造主に対して、我々がいかに小さいかを理解する事。畏れを持つことが知恵の始まりである。
それに比べて、この地上で自分は全て解っているというのは愚か者と描かれている。この箴言のソロモンの知恵はどこから来たのか(列王記第一3:9〜12 )。神がソロモンに与えられた知恵であり、世の知恵ではない。ソロモン王が自分のために長寿を願わず、富も願わずに神に選ばれたユダヤの民を統治する知恵を願ったので主の御心にかなった。しかしそれでも神に選ばれた民、イスラエル民族は神への反逆精神が治らない。
箴言1:23〜24節「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。」
ユダヤ人だけでなく現代の我々にも神は救いの手を伸ばされている。主の霊を注いで下さろうとしている。思えば、自分も神を畏れることを知らない時代が長かった。主に呼ばれていることすら知らなかった。
29節「それは、彼らが知識を憎み、主を恐れる事を選ばず、」にいたからである。
33節「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」
主の霊、今は恵みの時代で聖なるキリストの聖霊として我々に注がれ続けている。主イエスの霊は、力を持って相手を裁く霊ではない。自分を十字架にかけ、つばをかけられた相手を7の70倍も赦す、聖なる霊。その力を分けてくださっている。
確かに世を見回すと旧約時代も、現代もわざわいで満ち溢れている。コロナがこの様に拡大すると予想もしていなかった。例えば日本の友人は小さな飲食店は閉めざるをえなかったし、もう一人は観光ホテルに勤めているが、コロナの影響で仕事量が減ってしまい、彼の隣人も食べるのに苦労するほどの状態の方々がおり、その3人で市役所に助けを求めに行ってきたそうだ。この世は財政的なわざわい、健康、家庭の苦難で満ち溢れている。
しかし箴言は、そのような毎日の中で語り続ける。わたしに聞き従う者はわざわいを恐れることなく、安らかであると、箴言は今の我々に伝えてくれる。災難や自然災害、雷はお寺にも落ちるし、教会にも落ちる。教会員だけが守られるわけではない。決して信じる者だけがこの世のすべてのわざわいから守られることではないが、そのかわりに主を畏れる事を知り、主の前に正しい、人間らしい生き方を送ることで、命の水が湧きあがるような喜びを得て、この世のわざわいを恐れることがなくなり、主の平安・シャロームを頂くことができる。なんという主の恵みでしょう。心から感謝します。
祈り
苦しみとわざわいの真っ只中におられる方とその家族、その人たちを手助けしている病院スタッフ、コロナの影響で外出も出来ない方々。恐れを平安へと変える道がありますことを、未だ知らない人達に伝えることができますように。オミクロンの感染力よりももっと強力な主の力、みことばが広がりますように。祈ります。
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