ローマ人への手紙 3章 関
このローマ3章には「神の義」ということばが多く出てくる。「神の義」と聴いて、どんなイメージ、感覚を持つだろうか。
義とは、正しさのことである。しかも「神の義」だから、それは絶対正義と言える。私たちは、神の絶対正義と言われると、思わず怖くなり下を向いてしまう。
しかし、御言葉は語っている。
「信じるすべての人に与えられる神の義」(22抜粋)
「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(24)
「神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めの捧げものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」(25抜粋)
御言葉によれば、神の義は、十字架に公に示され、その神の義は、恵みとして与えられるものなのだという。私たちが、努力や修養をして到達、獲得するものではないのだ。
神の義とは、人を裁くための義ではなく、人を救うための義だということだ。
それに対して人間の義は、多くの場合、自己防衛や自己正当化のためにある。そのためには、他者を悪としたり、批判したり、裁くことをする。人間の義とは、自己中心的であり、相対的なものである。ましてや、自分の義を絶対化するとき、そこには争いと分裂が起こってくる。
御言葉には「義人は、いない。一人もいない。」(10抜粋)と記されている。その通りだ。義なる方は、神だけである。
「私の義」ではなく、「神の義」に生きる者でありたいと心から願う。しかし、自分は「神の義」と言いながら、いつの間にか、それを「自分の義」にすり替えてしまうことがある。
そこは、結ばれる実は一目瞭然だ。どんなに自分は正しいと思っていても、そこに分裂、争い、不一致という実が結ばれるなら、その正しさは、真の神の義ではなく、神の義を自分の義にすり替えて利用することによって結ばれる実だ。
神の義とは、人を義と認め、救う義なのだ。すなわち、神の義とは、神の愛なのだ。この十字架のイエスに示された神の義に生きる者でありたいと心から願う。
天の父なる神さま
あなたの義を感謝します。かつては、あなたの義を恐れていました。しかし、今は あなたの義は、喜びと平安をもたらすものとなりました。
どうか、神の義に生きる者でありますように。「義人はいない。一人もいない」ということを忘れることがありませんように。私たちの義が、人を活かす義となりますように。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
コメント