エゼキエル書 第44章
第44章では、おもに祭司に関わる律法が書かれています。祭司になれるレビ人ですが、イスラエルにおいて偶像礼拝に走ったレビ人と、その中において、信仰を守ったツァドクの子孫が祭司として神に近づくことが出来ると神は宣言されます。「レビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪をおわなければならない」(10節)。しかしツァドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務めを守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血をわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる」(15節)
では、レビ人とはどういう人物なのでしょう。ヤコブの妻レアの第三子レビに由来する部族ですが、出エジプト以降、契約の箱の運搬、そして幕屋や聖所での奉仕を担ようになっていました。そして、同じレビの子孫の中のアロンの家の監督下に奉仕するようになりましたが、ダビデ、ソロモン時代に入って、定められた場所での神殿礼拝が確率され、幕屋運搬や組み立ての用が必要とされないようになると、多くのレビ人は、祭司として用いられるようになりました。
神様は、聖なる存在であり、祭司は、イスラエルの民が聖であるように、聖性の維持に努めることに重きがおかれていました。神の宮、教会に仕える働きは、信仰による働きであり、教会の奉仕には、教える働きのみならず、それこそ、卑しいと思われる奉仕もあります。しかし神は、その宮の働きにおいて、どの奉仕も「心に割礼を受けている者」、信仰を持っている者がするように定められています。 どの奉仕も、祈り心をもってなされることが重要で、たとえ会堂掃除であれ単純な準備であれ、神の栄光を現すように、と信仰と祈りを持って、心からなされる時に、それは来会者の心を打つような働きになるのではないでしょうか?
「何をするにも人に対してではなく主に対してするように心からしなさい。」 (コロサイ人への手紙3:23)
28節以降は、祭司の生計について語られており、祭司は、常に神のことに集中してその務めを果たすことが本分であるという観念に基づいて、彼らの働きは、捧げものによって支えられなければならないとされていました。祭司を支援し、神の働きに向かわせることは、神の民の責任であると同時に、神の民の特権であり、またそれが神の民の祝福となって帰ってくる。奉仕もささげ物も重要な務めであると心得て、神の家に仕える信仰者でありたい。
神様が忌み嫌う偶像礼拝に陥らないように、又、イエス様を知らずに偶像礼拝をしている人を、イエス様に導けるよう、聖霊様の助けをかりて、祈り、伝道出来るよう、神様、どうか、私たちを見守って下さい、導いて下さい。
祈り:天に御在天の父なる神様、あなたに信頼します。私たちの言葉にならない叫びを、聖霊をもって執り成して下さることを感謝します。いつも私たちと一緒にいて、恐れるな、たじろくなと言われる神様、感謝します。アーメン
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