ローマ人への手紙 4章
『聖霊さまのイルミネーション』
この4章でパウロは、ダビデとアブラハムは律法の行いによらず、信仰によって義と認められた人の実例であると伝えている。(1〜25節)
パウロ自身がそうであったように。
神さまは私たちを救うために、信仰によって義と認められる道をわざわざ備えてくださった。イエスさまを人として遣わし、十字架の死によって私たちの罪を赦してくださる恵みを用意してくださった。
神さまは「不敬虔な者を義と認める方」(5節抜粋)なのだ。イエスさまの十字架を信じる罪人を、罪人であるままに義人としてくれること、これをマルティン・ルターは「義人にして同時に罪人」と表現した。
きのうのディボーションには、「「私の義」ではなく、「神の義」に生きる者でありたいと心から願う。しかし、自分は「神の義」と言いながら、いつの間にか、それを「自分の義」にすり替えてしまうことがある。」とあった。
「自分の義」は対立や分断の引き金になることが多い。「自分の義」が勝るあまり、相手を嫌悪するほどに負の感情がエスカレートしてしまうことさえある。
私たちはイエスさまを信じながらなお、肉の内に残る罪深い性質と常に苦闘している「義人にして同時に罪人」だ。
それでも、そのありのままの悪弊を神さまに差し出せば、神さまは必ずしずめてくださる。そしてその先のことは、神さまに任せなさいと導いてくださる。善と悪、正と誤といった二分法ではなく、相容れないものを融和させてくれる御力がある。
神さまに正直に差し出す祈りの習慣が身についたのは、つくづく聖霊さまのはたらきのおかげなんだなあと感謝する。ローマ書もこれから聖霊さまが大活躍だ。
降誕の日を待つイルミネーションの季節。イルミネーションの起源はルターだとの説を聞いたことがある。
ルターは夜の森の中で煌めく星を見て、「啓明」(イルミネーション)を感じ、木の枝にたくさんのロウソクを飾って灯し、主に感謝したと。
聖書を読むときに聖霊さまから与えられる理解力や悟りのことも「啓明」という。
聖霊さまに助けていただきながら、神さまの義に従う者となれますよう、イエスさまのお名前で祈り、アドベントを待ちわびます。アーメン
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