エゼキエル書38章
『降誕と再臨の恵み』
前章で、イスラエルの捕囚の民が、神さまの恩寵により回復させられるとの預言を聞いてホッとしていたら、悪の権化のようなゴグが現われ、またもやイスラエルを襲撃するという。
その参謀はなんと神さまご自身なのである。
「おまえを引き回し、おまえのあごに鉤をかけ、おまえと、おまえの全軍勢を出陣させる」(4節抜粋)
ペルシアとエチオピアもゴグと一緒に、嵐のようにイスラエルに攻め上るという。
しかし終末論的なことば、「備えをせよ」、「多くの日が過ぎて」、「多くの年月の後」が周到にはさみ込まれている。
バビロンの捕囚の時代のことなのか? イエスさまの再臨と最後の審判のことなのか?。遠近感がくらくらして焦点を絞りにくい。いや、おそらくどちらをも含んだ、掛けことばdoubles meaning、なのだろう。
直近の御心は、イスラエルの捕囚の民が、神さまが回復の約束をしてくださったことに浮かれて、捕囚されたことの真の意味を忘れないよう、とのいましめ。
終末論的にも、私たちは常に備えている必要がある。
「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時にくるのです。」と、イエスさまはたしなめているのだから。
終末までの出来事を、世界史に照らし合わせる人もいる。
第一次大戦でシオニズム運動に弾みがつき、第二次世界大戦でのホロコーストの結果、イスラエル再建への道が備えられる。1948年イスラエル国家再建‥‥。
「メシュク」(2節)はモスクワ、「トバル」(2節)はロシアの主要都市、「ゴグ」はコーカサス山脈の高い山の名称だと解説し、ロシアの位置はイスラエルに対抗する最後の異邦人勢力だとする解釈もある。
それはプーチンのウクライナ侵攻と、のちに関連があるのだろうか‥‥。
こういう軽々しい、短絡的な連想は最もしてはいけないことだ。
イエスさまは預言される。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかしこれは産みの苦しみの始まりなのです。」(マタイ24:7〜8)
「産みの苦しみ」という表現は、聖書の中によく使われている。
「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ人への手紙4:19)
「産みの苦しみ」の意味は、10ヶ月の臨月までの長さと、痛くなったりおさまったり、周期的に寄せては返す波のような陣痛の後に、やっと赤ちゃんが誕生する道のり。山あり谷ありを経てやっと、赤ちゃんが産まれる喜びに出会えるということだ。
イスラエルの真の回復も、再臨までの道のりも、どちらもすべて神さまの手中にある。産みの苦しみを多かれ少なかれ経験する。
だから私たちは神さまの御元に集って、still 静まるのだ。礼拝しつつ備えるのだ。イエスさまの臨在を感じるということは、すでに神の王国は到来しているということなのだから。アーメン、神さま、感謝します。アドベントを待ちます。
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