エゼキエル書26章
『ツロのさばきから学ぶ』 byアイゾン直子
ツロに対する預言の章が始まりました。ツロは、ダビデやソロモンの時代に、王宮や神殿建設のための杉材や、木工、石工を送った小さな都市です。ツロの王ヒラムは、ダビデ、ソロモンとも親交がありました(2サムエル5:11、1列王記5:1‐10)。その頃のツロには、主への信仰がありました。
しかし、ソロモン王亡き後、イスラエルは分裂し、主への信仰は失われていきます。ツロもその影響を受け、主から離れていきました。信仰によって与えられた富や繁栄でしたが、巨大な商業都市となった小さな港町ツロは、ますます強欲になっていったようです(牧師の書斎参照)。その傲慢さ加減は、エルサレムの崩壊を目にして、悲しむどころか、嘲笑ったことからもわかります。(2節)
恐れる神のいない世界は、人を踏み台にしてでも、欲しいものを手に入れようとする世界です。そこには愛などありません。他人の不幸はまさしく、蜜の味、の世界です。ツロのように、与えられた恵みを分けることもせず、自らの繁栄だけを求めているなら、欲望が更なる欲望を生んで、エルサレムの滅びを喜ぶような者になります。
エルサレムの崩壊を嘲笑ったツロは、主の敵となり、多くの国々から攻められるようになる、とエゼキエルは預言しています(3節)。このことは確かに成就しており、ツロは、アッシリアやエジプト、バビロン、マケドニアといった国々から攻撃を受けました。特に、バビロンのネブカドネツァルによる攻撃は、跡形もないほどの破壊となりました。主は、「わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網干場となり、二度と建て直されない。」(14節抜粋)と言われた通り、現在のツロは、都市としての面影などなく、ローマ帝国時代の遺跡が残る町として残っているだけです(Wikipedia参照)。
富や地位、名声、また権力を手に入れることは悪いことではありません。ソロモン王は、そのすべてを与えられました。また、アブラハム始め、ヨセフやモーセ、ダビデなどにも与えられました。しかし、それらが主による一方的な恵みであることを忘れ、神をないがしろにするなら、それらは取り上げられる、というのが旧約時代におけるパターンでもあるように思います。
主の恵みによって与えられた祝福を、感謝を込めて主に帰すなら、祝福に祝福が増し加わると言います。この世で手にするすべてのものは、神からの預かりものであることを忘れず、感謝をささげ、他者と分かち合っていくなら、神はさらに、溢れるほどの恵みを与えてくださる、と言います。しかし、与えることも恵みなら、奪うこともまた、恵みであることを聖書は語ります。このことは、傲慢にならないための、大切な教えであると思います。
「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)
この節は、信仰に生きていたヨブの息子や娘たちが突然殺されたり、また自然による二次災害で彼らを失う、という凄まじい悲劇の後であっても、迷わず、彼が主にささげた祈りのことばです。普通なら、「どうしてこのようなことが!」と嘆き、呪うだろうと思います。神などいない、と信仰から離れていってしまうかもしれません。しかし、ヨブの信仰は全く揺るぎませんでした。彼は、神を恐れる者でした。与えられることも、奪われることも、神の主権によるものであり、どちらも恵みであることを理解していたのです。
エゼキエル書を通して、きびしい神のさばきについて学んで来ていますが、傍観者であってはいけない、と思いました。民による主への背信を学びながら、自らの信仰を吟味する必要を迫られました。恵みを受けることばかりに集中していないだろうか、また逆に、与えることばかりに翻弄されていないだろうか。何が正しくて、何が間違っているのかではなく、恵みも祝福も神の主権であることを確認し、与えられたなら感謝して受け取り、取り去られても、神に委ねることで得られる平安に感謝する、そのような信仰生活を送れるよう、聖霊の満たしを日々求めたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。あなたの恵みと祝福は、私には測り知ることができません。でも、分からない、理解することができないことにも感謝します。なぜなら、今はわからないけど、理解できないけど、「その日」には、必ずあなたが私を完成させてくださるからです。私のすべてをお委ねします。どうぞ、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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