エゼキエル書24章
『聖書の中の歴史』
飢饉が続き、エルサレムの町の中には食べ物がなくなり、民衆が飢えにあえいでいた。と、バビロンはエルサレム壊滅ののろしを上げ、聖都を包囲した。その日が、「第九年の第十の月の十日」(1節)だ。解説書によると、前588か587年だそうだ。
24章ではエゼキエルに対する主のことばが預言として語られ、その内容は難解でおどろおどろしい。”さびた鍋で、流血の都をぐらぐらと煮てしまえ”とは、仏教でいう”地獄の業火”か。
エルサレム包囲と陥落については、Ⅱ列王記25章とエレミア書52章にその顛末が全く同じ文章で記載されている。それほどに、エルサレムの終焉はイスラエルの民にとって重大な史実だった。さばきは民族の深い傷となって、長く今に続いているのだ。
聖書の歴史を理解しようとする時、私はその立ち位置に迷う時がある。
時間と場所で移ろう歴史に対し、時間も場所も超越する神さまを主題にした聖書は、重層的だ。
聖書の中の、神さまが啓示した歴史的な特徴を通して、私は神さまの超越的な救済の計画を知ろうとする。
だけど、旧約の登場人物は、エゼキエルやエルサレム崩壊を体験したイスラエルの人々…、つまり神さまを実際に体験した人にとって、神さまは超越的で現実から離れたところに存在していたわけじゃなかった。むしろ、実際に起こった歴史のただ中で、神を体験したのだ。さばきの体験だけで死んでいった人、救済の恵みを体験した人、こもごもだ。
今は神さまの普遍的な真理と認められていることがらも、エゼキエルの時代の人にとっては、俯瞰のしようがない。そんな聖書時代と今に生きる私の間の隔たりをも理解しながら、御ことばを聴き続けたい。
神さま、エルサレムを追われたイスラエルの人を思います。アウシュビッツで虐殺された人を思います。
どうか思考停止にならず、根気よく、聖書に描かれている歴史を学べますよう力を授けてください。
「バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。」(詩篇137:1節)
神さまの救済を信じ、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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