エゼキエル書 6章
『わたしが主であることを知る』
一般的にクリスチャンは怒ってはいけない、全ての事を赦し、全ての事を耐え忍ばなければならない。怒る者はクリスチャンではないという誤った考えがあるのではないだろうか。
エペソ4章26節「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」
怒るべき時には怒っても良いのです。主イエスも神殿の宮清めとして商売人たちを父の家を汚す者と言ってお怒りになっています。義に基づく怒りまでも抑えて、丸く収めるようにとは聖書は書いていません。怒りの度合いにも色々とありますが例えば、愛する者に裏切られた時には、それまで信じ、愛していただけに怒りの炎も強烈です。しかしそれでも怒りが原因で罪を犯したり、憤ったままで過ごしてはいけないとあるのです。
11節「神である主はこう言われる。『あなたは手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の、忌み嫌うべきすべての悪のゆえに、『ああ』と嘆け。彼らが剣と飢饉と疫病によって倒れるからだ。」
私たちが信ずる神は愛の神ですが同時にねたむ神とも記されています。特にイスラエルの民は神に愛され、育てあげられた民ですから創造主である主なる神以外のものを偶像礼拝したり、主が忌み嫌うことを行い、悔い改めない姿は許されるものではありません。正しい道に歩むように試練を与えられ、悔い改めなければ裁かれてしまう運命にあるのです。
罪にまみれてしまった私たちにとって神は畏れ多くて神を見た者はその栄光に打たれてその場で死んでしまう神の存在であった。モーセが燃える柴の茂みから神に呼びかけられた時に、モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。しかし、主を仰ぎ見る時に私たちの顔も輝くのです。命を与え、命を奪う全能なる神に出会う時に、人は畏れ以外なにものもないのでしょう。人は主を恐れることによって悪を離れ、咎が赦されるのです。私たちは他人と仲良くしようと努力しますが、まず神と和解しなければ、決して他人との平安は平安とはならないのです。話を戻しますが預言者イザヤも御座におられる主を見た時に、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で万軍の主である王をこの目で見たのだから。と畏れました。このような畏れ多い主が預言者エゼキエルを通じてイスラエルの罪を裁くことばがくだされたのがこの6章です。
9〜10節「あなたがたのうちで逃れた者たちは、捕虜になって行った国々で、わたしから離れた彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目に、わたしがどんなに傷ついたかを思い起こす。自分たちのした悪や、あらゆる忌み嫌うべきことを、彼ら自らが嫌うようになるとき、彼らは、わたしが主である事、また、わたしが理由もなく、このわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知る』」
エゼキエルはバビロン捕囚の預言者で滅亡と同時に将来の祝福も語ります。このエゼキエル書には70回「わたしが主であることを知るであろう」と繰り返されているのです。そしてエゼキエル書も1〜33章はエルサレム陥落前の審判が中心となりますが34〜38章はエルサレム陥落後の回復の約束を語ります。イザヤ書でも学んだように、畏れ多い神は確かに罪を裁く神ですが同時にイスラエルを愛し、励ます神、他の物を拝む時には愛のあまり強いて人間の感情とすればねたむ姿が語られています。
8節「しかし、わたしは、あなたがたのうちのある者を残しておく、あなたがたが諸国に追い散らされるとき、剣から逃れる者たちを国々の中に残す。」
旧約聖書での父なる神はとても近づくことが出来ない存在でしたが、主イエスを私たちの間に送ってくださり、主イエスを通じて和解して下さったので畏れ多い遠い存在から、私たちの心の中に入ってくださり、いつでも父よと呼び、主イエスよと頼める身近な存在となって下さいました。本当に感謝な事です。 そうして多くの者が父から離れてしまったユダヤ人ですが、それでも父なる神を愛する残れる者・レムナントと呼ばれる者たちが残されているのです。現在でもイスラエル国民の大勢は主イエスを知りませんが、少数の残された者は主イエスを信じている者たちが残されていて主イエスの再臨を待ち続けていることに感謝致します。
祈り
創造主である父なる神よ、御子イエスを送って下さり神がどのようなお方なのかを聖書を通じてはっきりと私たちが理解できるようにして下さったことに感謝致します。主イエスを信じる者が神から離れていました罪が赦され、再び神と共に住むことができるように十字架を示して下さったことにも感謝致します。どうかこれからも弱い私たちを滅びから救い、心の内から助け導き続けて下さいますように アーメン
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