使徒の働き10章
『神さまを語るということ』
大改革を迎えた。10章から11章まで、異邦人が初めて洗礼を受けたことの詳細が伝えられている。
ユダヤ人のペテロにとって、異邦人は汚れた存在で近づくことなどあり得なかった。同胞の血が混ざるサマリア人でさえ犬猿の仲で拒み続けていた。
長い分断を和解させるために、イエスさまは大胆かつ繊細に改革された。
ローマから派遣されたイタリア隊はサマリアの港町、カイサリアに駐屯していた。その部隊の隊長がコルネリウス。コルネリウスはローマ人でありながら神さまに対して敬虔だった。
(聖書に出てくる百人隊長はなぜか皆、イエスさまに友好的だ)
まず、コルネリウスに御使いがあらわれ、ペテロに会うように命じた。ペテロも幻を見た。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と、神さまは命じられた。
二人に幻を見せて心の準備をさせてくださった神さま。特にペテロにとって、ハードルは高かったはずだ。でも聖霊さまに助けられながら、一大改革を従順に受け入れた。
そしてペテロはコルネリウスの招きに応じて、サマリアの地に足を踏み入れ、ローマ人らに会いに行った。
コルネリウスは、ペテロと会った瞬間、足元にひれ伏して拝んだ。イエスさまの使徒には特別な権威があると、軍人らしく敬服したのかもしれない。
「するとペテロは彼を起こして、「お立ちください。私も同じ人間です」と言った。」(26節)
イエスさまによって救われた、同じ罪人。神さまのあわれみによって、福音を伝える使命をさずけられたしもべ。あがめられるべきは、ただ神さまのみだという自覚。
先日の賛美チームのミーティングでも、「賛美奉仕で壇上に上がったとしても、まず礼拝者であること。神に仕える、会衆に仕える者であることを忘れないで」と、パスターは話してくれた。
27節から29節は私にとって、とても新鮮で、大きな学びだった。
ペテロはコルネリウスに招かれたゲストだ。集まったローマ人とは初対面。普通なら主催者であるコルネリウスが会衆にペテロを紹介して、どんないきさつで来てもらったのかを説明し、いよいよペテロのスピーチが始まる、という段取りのはずだ。
ところが紹介も前フリもなしに、ペテロは自ら語り出した。「ユダヤ人は本来、異邦人と交わらないおきてがある。でも神さまはペテロに、どんな人もきよくないとか、汚れていると言ってはなりませんと示された。だから、ためらいなくここに来ました」と。
イエスさまの証人としての伝道は、誰かにお膳立てされてするものではない。神さまを語らずにはいられない霊的な率直さは、神さまからの恵み。だから躊躇することなく、自ら語るのだ。語る者も、聞く者も、神さまの御心を受け取るための聖なる行為なのだから。
神さま、ディボーションをするだけでも躊躇する自分がいます。拙い裸の心を吐露すると、どう思われるのか気にする自分がいます。ペテロは異邦人の初対面の人にさえ、神さまを信じて神さまを語りました。神さまを信じて語れば、神さまを信じる友は聞いてくれていることを、今さらながら受け取ることができました。ありがとう神さま、感謝します。
イエスさまのお名前で感謝を捧げます。アーメン
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