詩篇第五巻 126篇
『都上りの歌』
「涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行
く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰ってくる。」(5~6節)
ネゲブの川はイスラエの南に位置する砂漠の中に雨季に現れる川。私の心に主の恵み
と言う川の水が溢れ流れる時、心は満たされて活力がみなぎる。それでは心がネゲブの
川の乾季のようにカラカラだとどうなるか。肉の世界の悪き言葉が少しずつ堆積して思
わぬ方向に心を動かされてしまう。
この詩篇の作者はバビロン捕囚から戻って、シオンの山に登っていく時の気持ちを
表現している。捕囚の民は全員戻ってきたわけではなく、長く住み慣れた異国の地に留
まると言う選択をする民もいた。そんな兄弟姉妹との別れが背景にある歌。
ネゲブの川に流れる豊かな流れの如く、多くの民が共にシオンの神殿に向かう様を作
者は願ったのであろう。バビロンから帰還しない人々は肉の思いだけで考えたら単なる
不信仰な人々で終わってしまう。しかし神様のご計画は奥深い。それらの人々は多神教
の中での種。将来のための種まきだったのだ。そんな主のミラクルがどんな時にも起こ
る。そして現代を生きる私の人生にも起こる。信仰によって、そう信じることが出来る
心を聖霊様によって与えられ、平安に祈れる事を感謝せずにはいられない。
20年前に一日14時間、連続五日勤務。休日は研究のために半日はデーター収集と
論文の下書きをしていた。心がカラカラになり、肉体的にも精神的にも押しつぶされそ
うだった。洗礼を受けて5年ほど経った頃だったがあまりの忙しさに聖書を読む時間す
ら無くなっていた。そして当時住んでいた10階のアパートのラナイから地面を見下ろ
していた。そんな時。「君はもう死んでいる。(有名な漫画の決め台詞のような感じで
は無い)以前の貴方じゃないのだからここで死ぬ必要はないよ」と語られた。今なら分
かる。あれはイエス様。私の罪のためにイエス様は贖いの死を選んで下さった。だから
この身は既に父なる神、御子イエス様のもの。私が勝手に神の子どもとして、この世から
離脱することは神様のご計画には無いと示された。
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。私
が与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ
4:14)
イエス様が私の主であると信じて歩む時、ネゲブの川のようにイエス様の愛が私の心
に溢れる。聖書を開き、御言葉を読むとき必ず心に響く節がある。それはイエス様から
の私へのメッセージ。イエス様の愛、命の水で満たされる。
イエス様から語られた後、自死を思いとどまり、職場に辞表を提出した。今、洗礼を
受けて25年が経つがまだ苦難の中を通される。しかし、今日の通読箇所により主のな
さってくださった恵みを思い出し、励まされた。世界中の困難の中にある兄弟姉妹が今
日も主の御言葉によって愛されている事を気づくよう祈りたい。
【祈り】
「彼らは泣きながらやって来る。私は彼らを、慰めながら連れ戻る。私は彼らを、水の
流れのほとりに、つまづくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエル
には父であり、エフライムは私の長子である。」(エレミヤ31:9)
天の父なる神様。貴方は私の避けどころ。私の砦です。私の涙をも貴方は益に変えで
くださるお方です。そして安全なつまづく事の無い道を示してくださるお方です。なん
と素晴らしい愛の言葉。どうぞ、貴方のご計画がなりますよう。またそのご計画を私が
全う出来ますよう強めてください。イエス様のお名前によって感謝してお捧げいたしま
す。アーメン。
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