2022年1月30日 ディボーション

マルコの福音書 1章


 今日からマルコの福音書に入る。

 1章では、神がバプテストのヨハネを通してイエスキリストに洗礼を授ける。ヨハネは自分には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もないと言っている。その資格のない自分が、イエス様に洗礼を授けるということは、ヨハネは言葉に言い表すことができないほど光栄なことだったと思う。さらに、ヨハネは、8節で「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」と述べているのである。水のバプテスマから聖霊のバプテスマに変わっていくことを語っているのである。


 イエス様が洗礼を受けられて水の中から上がると天が砕けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。


「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」11節


 私達も洗礼を授けられた時は、天から声こそしないが内なる聖霊様が私達の涙をとおして

喜ばれておられることがわかる。そして、私達にも、天の父なる神様は、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と語っておられるのでしょう。


 イエス様は洗礼後に40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。私達も洗礼を受けた後にサタンの誘惑がくる。洗礼を受けたから全てがうまくいくとは限らない。クリスチャン歴何年であろうと常にサタンとの戦いである。でも、私達の父なる神様は決して私達を見捨てないお方である。時には、私達は主の試みにあうときがある。それは、私達の霊的成長の訓練の為である。私は、未だかって主の試みが何であるかわからないことが多々にある。その時は、思いきり神に向かって訴えるようにしている。すると、神は聖書をとおして、あるいは人をとおして主の御心を示してくださるのである。


 そして、福音のはじめに弟子の誘導が始まる。シモンとアンデレの兄弟、そして、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟。その後は、イエス様の多くの人々への癒しが始まる。私の目に止まったのが、ツァラアトに冒された人を癒やされた時にイエス様が彼に言ったことばだった。


「だれにも何も話さないように気をつけなさい。」44節 一部抜粋


 私だったら嬉しくて、嬉しくてこの癒された人のようにこの出来事を言い広めるにちがいない。自分の身体に奇跡を起こして下さったイエス様をみんなに知ってほしいから。他にも大病の人が癒されるようになってほしいから。でも、それは私の肉的な思いであって、イエス様の本当の目的は、福音を述べて、罪の赦しを人々が受けることだったのである。



祈り

 愛する天の父なる神様。

 私を神の家族として受け入れてくださってありがとうございます。この喜びは、又、あなたの愛と喜びでもあることを知って心から感謝しています。あなたの福音を多くの人々に述べ伝えることができますように用いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン




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