詩篇第五巻 146 篇
ハレルーヤ詩篇
詩篇は自分にとって苦手な書、それは感情を歌い上げる詩なので、物事を筋道立てて理解しようとする自分になかなか合わない、詩篇はロジックよりもむしろ感情に満ち溢れているからかもしれない。
もともと詩篇というのは(テへリーム)讃えの歌という意味だが、内容は天なる神に向かって、人間が抱える怒り、疑惑、悲しみをぶつけながらも最後には神を賛美する、讃える構造となっている。
旧約聖書全体は、神の方からユダヤの民に語られた神からの救いの歴史と言っても過言では無いが、詩篇だけは、逆に人の方から神に向かって感情をぶつけてる。
その中には主を讃える歌、ハレルーヤ詩篇と言われるものがいつくかあるが、まとまって最後に続けて出てくるのがこの146編から最後の150篇までで、締めくくりが全てハレルーヤ、讃えの歌として、詩篇のまとめをしている。詩篇の中身を読み出すと、なぜ神は私にこのような苦しみをあわせるのか、御顔を背けるのか、悪がはびこるのを許すのか、なぜ 私の声を聞いてくださらないのか、と我々が苦しむのと同じ思いを天にぶつけてくれている。思うに、詩篇の始まりは 1章1節「幸いなことよ」とエデンの園を追われた人が幸せになるには神に向かってまっすぐに進むことが幸いなこと、主のおしえを口ずさみ、喜びとすることが幸いなこととして始まり、患難に悩む我々の心のうちを訴えながら、詩篇の終わりにはこのハレルーヤ詩篇が主を賛美すること、人類の向かっている最終目標として登場している。我々もいずれ行き着く所は、主への賛美、ハレルヤの世界に向かって全てが進んでいる。
1節「ハレルヤ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。」5節にも「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人。」この幸いなことよが主イエスの山上の説教につながってゆくのではないだろうか。マタイの福音書5章3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」自分が神の道から遠のいていて貧しいと魂が砕かれている思いを持つ人、気ずくものは幸い、砕かれた魂を主は喜ばれるので、これから向かう天の御国、パラダイスは、砕かれた魂が招かれているので幸いだとおっしゃています。続いて5章9節「平和をつくる者は幸いです。」平和に他人と暮らす、穏和な人生の者ではなく、平和をつくる、努力しながらも祈って人の社会に和解をつくる者のことです。砕かれた心を持ちながらも積極的に、神のみこころを行う者、あわれみ深い、心の清い者は幸いです。我々が創造された、目的は主をほめたたえるためですが、この地にいる間は、ほめたたえて主のみこころを行う者となる勤めが与えられているのです。主を信じる者は、その霊が救われます、霊が人の身体から出て行くと、土に帰りますが、その霊の救いだけで終わるわけではありません、やがて主がとこしえに世界を治められる時には、我々の身体が永遠の身体となる救いがやって来る約束がされています。
この二重の救い、永遠なる主を頼みとして、主をほめたたえましょう。幸いなる者よ!
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