詩篇第五巻 144篇
「幸いなことよ 主を自らの神とする民は。」 16節 一部抜粋
144篇を拝読していて、上記のみことばが心に響いた。
12節以降のダビデの祈りは、どんな困難の中にいても主を賛美し、主を神として唱えていれば幸いであり、祝福されるということである。そのみことばをとおして、詩篇の作者達がいろんな苦難や迫害の中にいても主を賛美し、主を自分達の神として、幸いを得て生きてきた光景が目に甦ってくるところである。
詩篇もあと残すところ6篇だけとなった。150篇という長い聖書の箇所だったけど、この
詩篇を通して自分に語られ、示されたことは多々にあった。日々のディボーションがとても
大切で大変有意義なものであることも示された。時には、主の語られることが何なのかまるで示されない時もあったが、その時は詩篇のみことば 119:18 を何度も読んで祈った。
「私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。」 詩篇119:18
そうすると不思議と主の語られることに近づくことができたのである。ある牧師は、
「信仰の基本とは、創造主との祈りの交わりである。」と語っていた。神との祈りの交わり
こそが信仰の礎となっていくのである。と同時にみことばに常に重きをおくことである。
詩篇には、見事なまでに素晴らしい歌詞がたくさんある。多くの作曲家達に愛された詩篇
である。ディボーションしている時に知っている歌詞にであう時につい口ずさむことが多々
にあった。詩篇を通読してきて何が自分に語られたかというと、詩篇の作者たち(ダビデ、
アサフ、ソロモン、モーセ、祭司、その他、等々)は、どんな状況の中にいても神の前にすべてを訴え、叫んで祈ったことである。神は、どんな祈りも聞いてくださるお方なのだ。詩篇の作者たちをとおして、私達の日々の祈りが不満や否定的なものであっても、神の前にそれらの感情をさらけ出すことなのだ。神に隠し事をすることは絶対にありえないことで、たとえ他人に隠し事をしても、神の前にはできないことである。なぜなら神は、私達のどんな小さなこともすべてをご存知だから。そんな私達に神が望んでおられることは、神の前にありのままの自分を出して悔い改めることである。神はそれを待ち望んでおられるのだ。
日々のディボーションをしていて何が一番いいかと問われたら、それは、今日の聖書の箇所で神様は自分に何をお語りになってくださるのだろうかということである。神様は、必ず語ってくださるのである。私がディボーションを一年以上も続けてこられたのが不思議なことである。私達の神様は、私達が信じて全てを委ねていけば私達の想像をはるかにこえたことを成し遂げてくださるお方である。それは、主の恵みと憐みの他はなしということに繋がることである。
祈り:
天の父なる神様、詩篇の作者たちをとおしてたくさんのことを私達に語り、学ばしてくださって感謝します。私達もこの学んだことをそれぞれの生きざまと証しをとおして多くの人々にキリストの愛、いのちを与えることができますように私達をお遣いになってください。大胆にあなたの良き証し人として用いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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