詩篇第五巻 143篇
『静まりの深化』
「私自身も経験がある。行き詰った時には、自分のことだけに固執する自己愛と利己心がむき出しになる。〜しかしダビデは、絶望の中で主に目を向けることができた人物だった。それができたのは、自分の弱さや力の足りなさを認めていたからだろう。」
と、したためてくれた昨日のデボーション担当記者にアーメンだ。
敵に追われ痛めつけられ命の危機が迫るダビデ。前の142篇も、今日の143篇も悔い改めの詩篇として似たところが多い。ただ143篇ならではの特長は、ダビデの黙想にあるのではないだろうか。
「私は昔の日々を思い起こし あなたのすべてのみわざに思いを巡らし あなたの御手のわざを静かに考えています。」(5節)
我が子アブサロムに逆襲された時だろうか。苦境にあってダビデは静まることができている。そして昔の日々を思い起こし、神さまからの恵みの数々に思いを巡らしている。この”思い”は、静まり、黙想だ。信仰の告白、神さまとの深い交わりだ。
信仰は、自分の主観的な思い込みで得られるものではなく、静まりの中で神さまが悟らせ与えてくれるもの。ダビデは血生臭い戦地でさえ、静まることができた。
「生ける者はだれ一人、あなたの前に正しいと認められないからです。」(2節)
しかも一国一城の主であるにもかかわらず、主の前に全面降伏、ひれ伏して信仰を告白する。唯一、義なる神さまだけがダビデを救ってくださると、信じて疑わないのだ。
王としての威厳も、男としての沽券もかなぐり捨てて、神さまの前に弱さをさらけ出すことのできるダビデ。
「主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富める者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。––-主のことば。」(エレミヤ9:22〜23)
パウロもこのみことばを引いて「誇る者は主を誇れ」と言っている。(1コリント1:31)
静まって、神さまを真にあがめることができたなら、自ずと頭をたれ、ひれ伏し、己を誇ることなく、主のみを誇れるようになる。そうなれるように私もなりたい。
イエスさま、イエスさまもよく荒野に退いて祈っておられました。荒野で静まり、父なる神さまと深く交わっておられました。私ももっと静まりたいです。自分の思い込みやプライドを捨てて、静まれる人になりたいです。恵みを悟れるようになりたいです。どうかあわれんで、導いてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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