2022年1月22日 ディボーション

詩篇第五巻 143篇


『静まりの深化』


「私自身も経験がある。行き詰った時には、自分のことだけに固執する自己愛と利己心がむき出しになる。〜しかしダビデは、絶望の中で主に目を向けることができた人物だった。それができたのは、自分の弱さや力の足りなさを認めていたからだろう。」

 と、したためてくれた昨日のデボーション担当記者にアーメンだ。

 敵に追われ痛めつけられ命の危機が迫るダビデ。前の142篇も、今日の143篇も悔い改めの詩篇として似たところが多い。ただ143篇ならではの特長は、ダビデの黙想にあるのではないだろうか。

「私は昔の日々を思い起こし あなたのすべてのみわざに思いを巡らし あなたの御手のわざを静かに考えています。」(5節)

 我が子アブサロムに逆襲された時だろうか。苦境にあってダビデは静まることができている。そして昔の日々を思い起こし、神さまからの恵みの数々に思いを巡らしている。この”思い”は、静まり、黙想だ。信仰の告白、神さまとの深い交わりだ。

 信仰は、自分の主観的な思い込みで得られるものではなく、静まりの中で神さまが悟らせ与えてくれるもの。ダビデは血生臭い戦地でさえ、静まることができた。

「生ける者はだれ一人、あなたの前に正しいと認められないからです。」(2節)

 しかも一国一城の主であるにもかかわらず、主の前に全面降伏、ひれ伏して信仰を告白する。唯一、義なる神さまだけがダビデを救ってくださると、信じて疑わないのだ。 

 王としての威厳も、男としての沽券もかなぐり捨てて、神さまの前に弱さをさらけ出すことのできるダビデ。

「主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富める者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。––-主のことば。」(エレミヤ9:22〜23)

 パウロもこのみことばを引いて「誇る者は主を誇れ」と言っている。(1コリント1:31)

 静まって、神さまを真にあがめることができたなら、自ずと頭をたれ、ひれ伏し、己を誇ることなく、主のみを誇れるようになる。そうなれるように私もなりたい。


 イエスさま、イエスさまもよく荒野に退いて祈っておられました。荒野で静まり、父なる神さまと深く交わっておられました。私ももっと静まりたいです。自分の思い込みやプライドを捨てて、静まれる人になりたいです。恵みを悟れるようになりたいです。どうかあわれんで、導いてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン



閲覧数:51回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

マルコの福音書2章 『イエスのもとに集まる群衆』 イエスは弟子たちと一緒にカペナウムに入ると、意欲的に行動された。会堂に入って人々にみことばを教え、汚れた霊を追い出し、病を癒した。さらにイエスはガリラヤへ渡り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒された。これらイエスの活動は、瞬く間に人々に知れ渡り、再びカペナウムに戻られたイエスを知ると、人々はまた集まって来た。 病の癒しを売り物にする宗教は山ほ

マルコの福音書 1章 今日からマルコの福音書に入る。 1章では、神がバプテストのヨハネを通してイエスキリストに洗礼を授ける。ヨハネは自分には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もないと言っている。その資格のない自分が、イエス様に洗礼を授けるということは、ヨハネは言葉に言い表すことができないほど光栄なことだったと思う。さらに、ヨハネは、8節で「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方