詩篇第五巻 142篇
絶体絶命の窮地に追い込まれたダビデは、敵から逃れて身を隠していた洞窟の中で、主に向けて正直な気持ちを表現した。
「声をあげて 私は主に叫びます。声をあげて 私は主にあわれみを乞います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し 私の苦しみを御前に言い表します。」(1〜2)
どのような状況でも、ダビデのように、自分ではなく主を軸にして生きることのできる人は、もしかするとそれほど多くはないのかもしれない。
3節に「私が歩くその道に 彼らは罠を仕掛けています。」とあるように、自分を中心に進む道へと誘うサタンの罠に、私たち人間はまんまと引っ掛かる。
小林和夫先生の著書『栄光の富』にも、”クリスチャンの信仰の障害はサタンとの戦いである”と書かれている。
自分の力で自分自身を制することは決してできないこと、「私の道をよく知っておられる主」(3)の助けなしには心の平安はないことをクリスチャンは知っている。
知ってはいるけれど、絶望は人を有毒にする。
絶望という名のサタンは、感情を支配し、思考を停止させる。
私自身も経験がある。行き詰った時には、自分のことだけに固執する自己愛と利己心むき出しになる。他者の存在ではなく、自分自身のことに関心を集中し、自分自身のことしか見られなくなる。自分のことで頭がいっぱいになる。
しかしダビデは、絶望の中で主に目を向けることができた人物だった。それができたのは、自分の弱さや力の足りなさを認めていたからだろう。
「私には 顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って 私のいのちを気にかける人もいないのです。」(4)
生きるって大変なことだ。けれども「たましいを牢獄から助け出」(7)すのは、自分ではなく主であることを信じ抜いて感謝できる人間でいられるならば、未来への恐れはなくなるはず。
十字架の「十」と「十」にはさまれて「立つ」と、「幸」という字になる。「幸」からひとつ「十」を取り除くと「辛」という字になってしまう。
十字架なしの人生は、人間にとってただ「辛い」もの。
主イエスキリストへの私たちの信仰が、揺るがないものとなりますように。
祈り:
愛する天のお父様。あなたの御手の中にいられることを感謝します。自分中心ではなく、避け所である主を中心に日々を過ごせますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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