2022年1月16日 ディボーション

詩篇第五巻 137篇


 136篇の神への感謝と恵みの祈りから一変して嘆きの祈りを表すものになっている。

バビロン捕囚の中でのできごとだと解釈されていて、迫害する者から、余興にシオンの歌を1つ歌えと催促された時のことが3節で述べられている。このことに対して作者は大変な辱間を覚えたことでしょう。自分にそのようなことが課せられたらどうしただろうかと自問自答させられるところである。


 それでも作者は、5節〜節でエルサレムとそこに住まわれておられる神を決して忘れない

と宣言しているのである。


『エルサレムよ

もしも 私があなたを忘れてしまうなら

この右手もその巧みさを忘れるがよい。』 5節


『もしも 私があなたを思い出さず

エルサレムを至上の喜びとしないなら

私の舌は上あごについてしまえばよい。』 6節


 どういうことかというと、バビロンの兵士にシオンの歌を聞かせてあげることはできないがもし作者が主を忘れることがあったなら、琴をひく右手が、歌を歌う舌がだめになっても良いと解釈されている。そして、エルサレムを至上の喜びにまさってたとえると宣言しているのである。どのような悲しみの中でも、主を信頼し、主を喜びたたえることが大切であるかを私達が学びとることではないだろうか。自分達にとって何が一番大切かを示された箇所である。


 エドムはイスラエルの親戚にあたる民族であるにもかかわらず、エルサレムが滅ぼされた時に残虐な行為をしてきた。そのエドム人やバビロン人に対して作者は、主ご自身が思い出して仕返しして下さいと訴えるのである。私達には仕返しはできないが、主ご自身ならできることを知っている作者は、大胆に仕返しして下さいと胸の内を訴えるのである。旧約の時代は大胆に復讐を神に訴えることが許されたけど、新約のイエス様の教えは、


『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』ローマ12:19 と述べられている。


 私達は他者に対して復讐しなくても、私達の代わりになってくださるお方がいてくださる

という恵みに感謝である。


祈り

愛する天の父なる神様。

楽器が弾けなくなっても、歌が歌えなくなっても、私達は主を喜びとして、主に全き信頼をおくことができますように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン




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