詩篇第五巻 135篇
私たちは、神の似姿として造られた。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1:27)
神は、ご自分の作品である私たちの鼻に、いのちの息を吹き込まれ、生きるものとしてくださった。また、人間に少しの欠けを与えてくださった。
「あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。」(詩篇8:5)
欠けのない完全な人を造ることができるお方であるにもかかわらず、神は、欠けがあるものとして私たちを造られた。
その欠けは、造り主である神によってしか埋めることはできない。人が神を必要とし、神と関わりあうことができるように、あえて欠けを造ってくださった。
しかし人は、自分という人格を造ってくださった神から離れ、息のない偶像によって、満たされない心を埋めようとする。
この135篇15〜18節で、偶像について書かれている。
「異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず 目があっても見えない。耳があっても聞こえず また その口には息がない。これを造る者も これに信頼する者もみな これと同じ。」
現代を生きる私たちにとって偶像は、金銀の像や、木や石の神々だけではない。
お酒、ギャンブル、買い物、薬物、財産など、形あるものに限らず、地位や名誉、所有欲や快楽も偶像と言える。
「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」(第1ヨハネ5:21)
何かを欲しがり、むさぼり求める気持ちが、偶像を生み出すのだろう。
神を見失うほどの自己中心的な欲には終わりがない。欲しいものを手に入れても満足しない。またすぐに他に欲しいものが出てくる。あるいは、手に入れたものを奪われたり傷つけられることを恐れるようになるかもしれない。だから、「偶像を造る者はみな 空しい。彼らが慕うものは何の役にも立たない。」(イザヤ44:9)
欠けている部分を埋めるために偶像に頼っても、ただ空しいだけ。その欠けは、私たちを造ってくださった主の力によってしか埋まることはないのだから。偶像から自分を守る方法は、いのちの源である主を求めることだと聖書に記されている。
「しかしそこから、あなたがたがあなたの神、主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。」(申命記4:29)
神の似姿として造られた私たちが、主の言葉を語り、主に目を向け、主の声に聞き従う者でいられますように。
祈り:
愛する天のお父様。罪人の私を赦し、新しいいのちを与えてくださった神様の愛に感謝します。どうか私の信仰をもっともっと強めてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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