詩篇第五巻 122篇
『初詣、主の家で祈る』
都上りの巡礼の歌。前の121篇では、エルサレムに近づき、都の頂を見上げながら、主から励ましを受ける。何日も歩いて疲れ切った足を、神さまはまどろむこともなく守り続けてくれた。すべてのわざわいから守ってくれた。そして122篇、ついに神の都エルサレムに到着。
「「さあ 主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ。」1節
主の家は神殿を指すだけでなく、神さまの臨在を礼拝するということ。神の民として、信仰の仲間として、一つになってともに主の御名に感謝するために。それを記者は歓喜した。
ホノルル教会の母教会はエルサレムでもある。2022年元旦、私たちも初詣する。
神の家族が集い合い、心一つに礼拝できることがどれほどの喜びか、この1節は教えてくれる。
主の家には「さばきの座」(5節)がある。
神さまは公平な方。悪や不正を見逃さない方。そして今、私たちは終わりの時代、さばきの時代へと向かっている。
元旦の朝、正しいさばきに従う者となれるよう、主の家で祈りを捧げよう。
「私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」」8節
主の家で、兄弟や友のために祈りを捧げる。誰かのために祈れるとは、なんという喜び! 私のために祈ってくれる友がいることは、なんという幸せ!
この122篇には「平和」という言葉が何度も出てくる。エルサレムという名前そのものも、エル(神の)サレム(平和、統合)だ。エルサレムは神の民を一つに結びつけるために、神さまが選び、名付けた地なのだから。平和を祈るということは、御霊に従うということだから。
神さまの初夢は今年も、「キリストにあって、すべてのものが一つになること」。平和と一致、イコール「互いに愛し合う」ことが変わらぬスローガンだ。
しかし世の中は分断と相反に満ちている。イスラエルの和解もなかなか進まない。私の中の肉の自分と霊的な自分の相反も手に負えない時がある。平和を望みながら、隔ての壁を作ってしまう自分がいる。平和と一致はほんとうに難しいチャレンジだ。
それでも聖霊さまの働きにすがって、霊的であることをよくよく吟味して、新しい一歩が踏み出せますようにと、主の家で祈ろう。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)
イエスさまこそ私たちの平和です。2022年も神の家族とともに、主の家で神さまの臨在をせいいっぱい賛美できますよう、清め導いてください。
イエスキリストの御名で感謝して祈ります。アーメン
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