イザヤ書30章
『恵みを与えようと待たれる主』
「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。」(18節)
アッシリアからの脅威にさらされていた南ユダは、その危機を回避しようとエジプトと同盟を結ぼうとしていた。しかし、そのことは神のみこころではなかった。それは、罪に罪を増し加えるばかりだ、とイザヤは語っている。
神のみこころを行いたいと願いながら、目の前にある問題に揺れ動き、不安という負の感情に負けて、神を待てずに行動を起こしてしまうのが、人間ではないだろか。
旧約聖書に描かれるイスラエルの民は、罪の性質を持ち合わせた私たち人間の姿を、見事なばかりに表していると思う。神に従いたい、良いことを行いたいと願っているのに出来ない。
「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」(ロマ書7:15)
神に触れていただくようになると、自分の中に在る古い人と新しい人の葛藤を経験するようになる。その葛藤を経験するとき、自らの努力でそれを克服しようとするなら、それは、イザヤのいうように、罪に罪を増し加えることになるのだろう。では、どうすればいいのか。
15節で主は、「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かに信頼していれば、あなたがたは力を得る。」(要約)と語られた。
神は、私たちに恵みを与えようと待っておられる。だからまず、主に立ち返って落ち着くこと、だという。そうすればたましいに安らぎが与えられ、静かに主を信頼していれば、必要な力は神が与えてくださる。これが、みこころにかなった解決方法であると、神ご自身が語っておられる。
罪の性質を持つ古い人は、私たち人間の力や努力によって治められるものではない。あのパウロでさえ、彼の内にある古い人を知るとき、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロマ書7:24)と嘆いている。
みこころではないことをしてしまうのが人間である。しかし神はそのすべてをご存じである。だから神は、忍耐をもって、私たちに恵みを与えようと待っておられる。そのような神の愛に身を委ねて、この地上での命を全うしていきたいと願う。
祈り:愛する天の父なる神よ。あなたの御名をあがめます。みこころに従って生きる者へと変えてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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