2022年1月15日 ディボーション

詩篇第五巻 136篇


『主の恵みはとこしえまで。』


 136篇の詩篇の、一字一句そのままを祈れる人になりたい。素直にアーメンするだけでいい。リズミカルな反復と端的な祈りを、一字一句たがえずに、愛する友と唱和したい!

 そもそも自分のアタマでデボーションするなんて、無理がある、限界がある。神の神であられる方、主の主であられる方(2、3節)は、どんな天才のアタマを借りたって掌握することはできないのだから。

 天地創造の歴史と、御技と救いの歴史、その後のイエスさまの行いー。136篇の証の内容は宗教ではなく、事実だ。実際に起こったことだと、体の中にストンとおさまると、ヘタなデボーションをせずとも、神さまの臨在と御技を感謝することができる。

「ただひとり 大いなる不思議を行なわれる方に。主の恵みはとこしえまで。」(4節)

 奇跡じゃなくて、神さまの御技。私には、壮大な計画の中のほんの少ししか分からないから不思議だけれど、ハテナと思うけれど、だいじょうぶ、主は良いお方。

 イエスさまの十字架への道行と、死と、復活こそが大いなる不思議。その不思議に驚いて、感動して、感謝するのが信仰の出発点なんだろう。136篇を読み返すたびに、新しい感動を味わいたい。

 日常茶飯の中の、神さまの不思議な御技を一つでも多く見つけたい。見つけて感動して感謝したい。

 不思議を見つけられなくても、神さまはそばにいて、憐れんでくださる。自分の愚かさや弱さを嫌悪する時も、失敗の時も、病になっても、死を迎える時すら、神さまの愛は減らず変わらず、注がれ続ける。そう信じられることを感謝したい。主の恵みはとこしえまで!


 学生時代「Count your blessings」という授業があった。2人一組で、相方が「Count your blessings」と言い、受け手が「今日は忘れ物がひとつもありませんでした」などと証し、一緒に「主の恵みはとこしえまで!」と唱和する。それをテンポよく、交互にいくつも挙げていく。他愛のないものなのだが、些細なことにも神さまの存在を気づかせてくれていたと、今になって思う。

 シスターが近くの自然林のある公園に誘い出してくれて、そこでよくCount your blessingsをしたから、授業というより楽しい散歩みたいな時間だった。コロコロよく笑い、大声で「主の恵みはとこしえまで!」とハモっていた友の顔が懐かしい。


 神さま、136篇を自分の賛美として感謝して祈ります。限りある自分時間を超えた、とこしえの時間に思いを馳せます。祈りの中にはすべての時間があるのですね。どんな祈りでも感謝につながりますよう、私を整え、神さまの恵みをたくさん気づかせてください。感謝して、イエスさまの御名で祈ります。アーメン


閲覧数:53回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

マルコの福音書2章 『イエスのもとに集まる群衆』 イエスは弟子たちと一緒にカペナウムに入ると、意欲的に行動された。会堂に入って人々にみことばを教え、汚れた霊を追い出し、病を癒した。さらにイエスはガリラヤへ渡り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒された。これらイエスの活動は、瞬く間に人々に知れ渡り、再びカペナウムに戻られたイエスを知ると、人々はまた集まって来た。 病の癒しを売り物にする宗教は山ほ

マルコの福音書 1章 今日からマルコの福音書に入る。 1章では、神がバプテストのヨハネを通してイエスキリストに洗礼を授ける。ヨハネは自分には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もないと言っている。その資格のない自分が、イエス様に洗礼を授けるということは、ヨハネは言葉に言い表すことができないほど光栄なことだったと思う。さらに、ヨハネは、8節で「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方