詩篇第一巻 6篇
『「主よ あなたはいつまで──。」の中で生まれる信仰体験」』
この人は恐れおののき、嘆いている。どのような状況にあったのだろう。必死なまでの叫びは、その口から溢れて止まらない。
「私を責めないでください。」1節a
「私を懲らしめないでください。」1節b
「私をあわれんでください。」2節a
「私を癒してください。」2節b
このような叫びを一方的に吐き出しつつも、この人はふと、こう問う。
「主よ あなたはいつまで──。」3節
この「いつまで」に続く「──。」が、心に留まる。声も枯れるまで嘆き続けているけど、一向にこの嘆きがなくならないのだ。
この人の苦しみを想いながら、一つ気づいたことがあった。それは、この人は嘆く相手がいるという事実だ。この人は何度も「主よ」と叫び訴える。
信仰者は、その信仰する絶対者なる神様に嘆いていいんだ。神様に私の嘆き相手になってもらっていいんだ。心にあること、全部、神様にぶつけていいんだ。
そんな純粋な信仰を、詩篇を歌う等身大を生きる信仰者たちから、私は教えられる。
そして、同じ神様を同じく信仰する私も不思議と、このみことばの力によって、純粋な信仰者たちと心重ねられていき、同じように神様の御前に立つことができるのだと思う。
神様を信じていれば、全てが順風満帆で…というわけでもない。試練がある。痛みもある。
でも、神様を信じていれば、このお方にそのまんまの信仰で、時に感謝し、時に怒り、時に訴え、時に嘆いたり…できる…と、これを書いていても、そういう葛藤的な要素の方が信仰生活は多いんじゃないか、と思ったりもした。でも、それが詩篇の賛歌になっている。そして、私たちの賛歌にもなるのだ。
この人は、「私は嘆きで疲れ果て 夜ごとに 涙で寝床を漂わせ ふしどを大水で押し流します。」(6節)と歌う。
しかし同時に、その葛藤ある信仰の営みで、「主が私の泣く声を聞かれたからだ。主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる。」(8〜9節)という信仰の深みをも体験していく。
嘆きの中にも信仰を通して知る、神に知られている自分。神に確かに聞かれている平安。神に受け入れられている深い喜び。
この人を通して、私自身、信仰の境地を教えられている。
天のお父様、
私にも信仰を与えてくださり、感謝します。等身大の純粋な信仰で、あなたに近づき、あなたをもっと知ることができますように。私の信仰を導いてください。アーメン。
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